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公孫氏 (こうそんし)は、 三国時代 の中国において栄えた 氏族。 2世紀 後半、 後漢 の地方官だった 公孫度 が 黄巾の乱 以来の混乱に乗じて 遼東 地方に半独立 政権 を樹立した。 民族 ・ 風習 とも、まったくの 漢民族 であるが、その 領土 は 朝鮮半島 中西部の 帯方郡 を境に、南は 韓 と接し、東北は 高句麗 、 西北は 烏丸 ・ 鮮卑 と接するなど、 異国 ・ 異民族 との関わりが深かった。 公孫氏の勢力圏である遼東以北の地はいわば 中華圏 の北東端にあり、 漢 ・ 魏 など時の中華王朝からは絶域とみなされ、それが公孫氏の勢力圏を半独立的な地方政権としての地位を確立する上で大きな意味を持った。 公孫康 の時代以後、韓や 倭 は 帯方郡 に帰属したとされる [1]。 歴史.
諡号 名 統治時間 備注 出典 康公 奭 周の武王元年 - 康王24年 武王の親族、周の三公の一人。 『史記』周本紀、燕世家 『今本竹書紀年』 数世代不明 幽伯 穆公 虎 周の定公と共和行政を行った。 『史記』周本紀 数世代不明 召伯廖 廖 『春秋左氏伝』荘公27年
法源寺 (ほうげんじ)は、 中華人民共和国 北京市 西城区 にある 仏教 寺院。 中国仏学院 と 中国仏教図書文物館 が寺院内に設置されている [1] 。 歴史. 法源寺は、 唐 の太宗の 貞観 19年(645年)に創建の勅願があり、 武周 の 万歳通天 元年(696年)になって落成し、憫忠寺の名を賜った。 太宗が 高麗 への遠征を行ったときに戦没した将士の忠魂を弔うために建てたという。 安史の乱 (755年 - 763年)の際「順天寺」と改称。 その後「憫忠寺」の名に戻った。 唐末の 景福 年間(892年 - 893年)、幽州 節度使 李匡威 は寺院を再建して、憫忠閣を建立、詩 賛 に曰く「憫忠の高閣、天を去ること一握」。 遼の時代に何度となく全面にわたる修復が行われた。
本名は不詳である。 張耳 の息子である 張敖 との間に 張偃 および恵帝の皇后 張氏 がいる。 生涯. 沛県 に生まれ、父の劉邦が秦末の動乱に参加すると母の呂雉とともにその留守を守った。 彭城の戦い に敗れた劉邦が 項羽 の放った追っ手から馬車で逃れる途中に沛県に立ち寄った際に、弟の劉盈とともに父と合流するも、追っ手に捕まるのを恐れた劉邦に、劉盈とともに何度か馬車から投げ落とされそうになるが、御者をしていた 夏侯嬰 によって救われている。 劉邦が皇帝となると、魯元公主は趙王張敖に降嫁するも、張敖は謀反の疑いで侯爵に格下げされた。 さらに魯元公主自身も 匈奴 との和平の必要から 冒頓単于 に嫁がせようという話が出て、劉邦もそれに乗り気であったが、呂雉の奔走によりこれは沙汰止みとなった。
- 歴史
- 文化
- 郭店一号「楚墓」
- 貝貨
- 参考文献
楚の成立
楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説に大きく分かれ、さまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。『史記』楚世家では、楚の祖先は顓頊(五帝の一人で黄帝の孫)であるとする。 北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。 江南諸国は周を中心とした中原諸国から蛮族として蔑まれたが、前史時代から文明を持っており、中原諸国とは異質な建築物や生産様式を有した文化であった。周の建国から少し経った...
覇者荘王と呉越の興隆
文王の時代に漢江・淮河の流域に在った息・蔡・陳などの小国十数国を併合或は従属させ強大化を果たす。成王の時代になると中原の鄭を度々攻めたが、斉が中原に覇権を打ち立てると中原への侵攻は鳴りを潜め、替わって漢江・淮河中下流域の経略を進め徐・黄などの東夷諸国十数国を併呑して領国を拡張した。 6代目荘王の時代になると、強盛な楚は陳・鄭などを属国化して中原を窺うようになる。晋の大軍を邲(ひつ)の戦いで破り、春秋五覇の一人に数えられる。また、荘王の時代に楚は呉と同盟を結ぶ。 覇権を得た楚であったが、荘王の次の7代目共王の代に、鄢陵の戦いにおいて晋に敗れて覇権を失ってしまう。 11代目の平王の時代に伍員(伍子胥)を国外に追放したことにより、伍子胥の補佐を受けた呉王闔閭の軍に首都を陥落させられ、一時滅亡の危機を迎えたが、申包胥の必死の懇願により秦の援軍を取り付け、昭王が復帰することができた。 紀元前334年、威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼした。
楚の衰退
戦国時代に入ると人口の比較的希薄な広大な国土に散らばる王族・宗族の数や冗官(俸給のみで仕事の無い官職)が多くなり過ぎ、国君の権力と国の統制が弱化した。他の六国では世襲でない職業官吏や、魏の文侯、秦の恵公などの開明君主に代表される他国出身者の要職登用が成立していたが、戦国時代を通じて令尹(宰相)就任者の大多数が王族であり、それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、旧態依然とした体制を変えられず権力闘争に明け暮れた。 戦国初期は呉に郢を落とされた時代から引き続いて国威が振るわず、魏や韓によって領国北部の淮河流域を奪われ、潁川(潁河)流域の陽翟や梁などを奪われたことが見つかった竹簡に記録されている。 やがて呉起が魏から亡命してくると、悼王の信任を得て前記の弊害を除去する国政改革を断行し、君主権を強め非効率な体制を改めることに成功する。しかし、悼王が死ぬと呉起は殺され、非効率な体制と各地に独立した権力を持つ封建領主が散在する旧情に復した。改革によってある程度国威を回復した楚は、淮河中流域の失地回復は果たせなかったが、長江や淮河の下流域への拡張を推し進...
春秋戦国時代における楚が注目される理由の一つとして、独特な文化を形成していたことが挙げられる。春秋五覇・戦国七雄の中でもシャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、中国化も進んでいたことがうかがわれる。
1993年に郢地で発掘された「荊門市郭店一号楚墓」から、楚独特の漢字である楚文字で書かれた竹簡が大量に発見された。度々盗掘に遭ったせいか、保存状態の良い青銅製祭器が少数しかないため分析が難しく年代の最終的な確定はしていないが、戦国晩期の楚の墓に特徴的な副葬品が無い事などから、これらの竹簡はおそらく戦国時代中期から後期の物である。 竹簡群が発見される以前、楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。
楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。
『史記』楚世家『春秋左氏伝』池田知久編『郭店楚簡儒教研究』,汲古書院,2003年賀年城 (かねじょう)は、 長門国 阿武郡 嘉年( 山口県 山口市 阿東嘉年下)の勝山にあった 日本の城 ( 山城 )。 別名 勝山城 [1] 。 概要. 阿東嘉年にある勝山(標高516メートル)に築かれた連郭式の山城。 築城年代は 鎌倉時代 末期 [1] とされるが詳細は不明。 少なくても 南北朝時代 にはあったと思われる。 正中 元年( 1324年 )に 吉見氏 が築城した三本松城( 津和野城 )の西方約8.5キロメートルのところに位置し、同城の支城としての役割を果たした。 山頂の本丸と東側の二の丸の二つの 曲輪 からなる単純な構造だが、山の急斜面を生かした要害であり、幾つかの 堀切 が残っている。
中華人民共和国 広東省 広州市 生まれ。 日本棋院 東京本院所属、九段。 敖立テイ四段門下。 第37回 棋道賞 勝率第一位賞受賞。 概要. 1991年来日。 日本棋院 院生 となる。 当時の院生には 張栩 (元 五冠王)・ 山下敬吾 (元 棋聖)・ 溝上知親 ・ 秋山次郎 (4人とも現九段)がいた。 張栩とは親しいことでも知られている。 その張栩とともに研究し、ブラックホールと呼ばれる新布石を開発し、NHK杯などでその布石を用いて話題を呼んだ [1]。 張によれば普段はイタズラとケンカばかりしてるヤンチャ坊主だったがいざ碁盤に向かうとその溢れんばかりの才能に驚かされたという [2]。 1994年入段。 張栩と同期入段になった。 2003年、 新人王戦 で優勝。