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藤原 姚子(ふじわら の とうこ/ちょうし、天禄2年(971年) - 永延3年5月29日(989年 7月4日) [1] )は、平安時代の女性。 花山天皇の女御。 堀河女御とも。 略歴 藤原朝光の娘で母は重明親王王女。 永観2年(984年)より麗景殿に入った [1]。朝光は父の藤原兼通や藤原媓子の遺品を麗景殿に送った ...
恬子内親王 時代 平安時代前期 - 中期 生誕 嘉祥元年(848年)頃? 薨去 延喜13年6月18日(913年 7月24日) 位階 無品 父母 父:文徳天皇、母:紀静子 兄弟 惟喬親王、源能有、惟条親王、惟彦親王、清和天皇、 晏子内親王、恬子内親王、述子内親王、慧子内親王、珍子内親王、儀子内親王、掲子 ...
- 父・兄の時代
- 前秦の時代
- 後秦(万年秦王)の時代
- 後秦(皇帝)の時代
父の姚弋仲は南安羌族の酋長であったが、329年9月に後趙へ服属し、暴君といわれる3代君主石虎からも一目置かれる存在であった。やがて冉閔の乱により後趙の支配体制が崩壊すると、密かに元々の根拠地である関中に割拠しようと目論んだが、果たせぬままに病没した。後を継いだ兄の姚襄は当初東晋に称藩するも、やがて自立して大将軍・大単于を自称した。姚萇は兄に付き従って各地の征伐に帯同し、いつも重要な策略に参画したという。 やがて姚襄は父同様に関中での自立を模索するようになり、転戦を繰り返して357年3月には遂に関中へ進出したが、三原(現在の陝西省咸陽市淳化県方里鎮)において前秦軍に大敗を喫してしまい、混乱の最中に戦死してしまった。その為、姚萇は敗残兵を纏め上げると諸弟を伴って降伏し、以降は前秦に仕える事となっ...
前秦の勇将
苻堅の時代になると揚武将軍に任じられ、幾度も大きな功績を挙げる事となった。 366年7月、輔国将軍王猛・前将軍楊安と共に、2万を率いて荊州北部の南郷郡を始めとした諸郡へ侵攻した。8月、南陽郡の新野県へも侵攻し、漢陽(漢江の北)の1万戸余りを捕らえてから軍を帰還させた。 同年12月、羌族の斂岐が略陽において前秦に反旗を翻して益州刺史を自称し、当時隴西に勢力基盤を築いていた李儼に臣従した。367年2月、姚萇は輔国将軍王猛・隴西郡太守姜衡・南安郡太守邵羌と共に1万7千の兵を率い、斂岐討伐に向かった。3月、前秦軍が略陽へ進撃すると、斂岐の部落民はかつて姚弋仲に属していたので、みな姚萇の到来を聞いて戦わずして降伏した。これにより前秦軍は略陽を制圧し、斂岐は白馬へ逃走した。姚萇は隴東郡太守に任じられ、当地の民の慰撫に当たった。 その後、左衛将軍に任じられ、汲・河東・武都・武威・巴西・扶風などの郡太守を歴任した。やがて再び揚武将軍に復帰して歩兵校尉を加えられ、さらに益都侯に封じられて食邑三百戸を与えられた。 また時期不明だが幽州刺史にも任じられている。 371年3月、西県侯苻雅・梁州刺史楊安・...
東晋征伐へ
この時期、苻堅は東晋征伐に強い意欲を燃やしていたが、群臣からは再三に渡り反対されており、賛成していたのは姚萇・慕容垂と貴族の子弟(若年の者の中には戦功を挙げて名を上げたいと願う者が多かった)のみであった。姚萇は慕容垂らと共にいつも苻堅へ、呉(東晋)の平定や封禅の事(天下統一後に行う天地への祭祀)について説いており、苻堅はますます江南攻略に意欲を燃やすようになり、この事について夜通しで語り合ったという。 同年8月、苻堅は東晋攻略を決行すると、陽平公苻融が歩兵・騎兵併せて総勢25万を率いる前鋒軍の総大将となり、姚萇は諸将と共にその傘下に入った。苻堅自らもまた戎卒60万余りと騎兵27万を率いて後軍となった。この時、姚萇は苻堅より龍驤将軍・都督益梁二州諸軍事に任じられた。 10月、前秦軍の前鋒は寿春を陥落させ、11月には淝水北岸まで進出したが、東晋の徐兗二州刺史謝玄に記録的な大敗を喫し、総退却する事となった(淝水の戦い)。これ以降、前秦に服属していた諸部族の謀反が各地で頻発するようになり、華北は大混乱に陥った。12月、苻堅は長安へ帰還し、姚萇もまた帰還した。
慕容泓に敗れる
384年3月、前秦の北地長史慕容泓が反乱を起こし、華陰において自立を宣言した。苻堅は都督中外諸軍事苻叡に5万の兵を与えて討伐を命じ、姚萇はその司馬(参謀)となって共に華沢へ進撃した。 4月、前秦軍の襲来を聞いた慕容泓は大いに恐れ、部下を率いて関東へ逃走した。苻叡は勇猛ではあったが粗暴で敵を侮る癖があり、彼はすぐさま追撃して慕容泓を滅ぼそうとしたが、姚萇はこれを諫めて「鮮卑(慕容の一派)はみな郷里(関東)へ帰る事を望んでおり、故に乱を為したのです。ここは速やかに関中から出るよう命じるべきであり、これを遮ろうとしてはなりません。例え鼷鼠(ハツカネズミ)であってもその尾を取れば、人に歯向かって噛みつくものです。彼らは自らが困窮していることを知っておりますから、命がけで我らに向かってきましょう。万が一にも利を失えば、悔いても及びませんぞ!軍鼓を鳴らして彼らを従わせるのです。そうすれば、彼らは逃走するだけで我らを顧みる暇などないでしょう」と説いたが、苻叡は従わずに華沢へ出撃した。果たして苻叡は慕容泓に敗れ去る事となり、彼自身は戦死してしまった。
万年秦王を称する
同月、姚萇は龍驤長史趙都・参軍姜協を苻堅の下へ派遣して敗戦を謝罪したが、苻堅は激怒して彼らを殺してしまった。姚萇はこれを聞いて恐れ、軍を放棄して渭北の馬牧場へ逃走した。すると、天水出身の尹緯・尹詳、南安出身の龐演を始め、陝西の豪族である趙曜・王欽盧・牛双・狄広・張乾らは5万家余りを引き連れて姚萇の下に集結し、彼を盟主に仰いで自立を勧めた。姚萇はこれを拒もうとしたが、尹緯は進み出て「今、百六の天命が集まっており、秦亡(前秦の敗亡)の兆は顕著に現われております。将軍(姚萇)の威霊(君主としての威光)・命世(世に名高い才)をもってすれば、必ずやこの艱難を匡済(乱れを正して救う事)する事が出来ましょう。故にこうして豪傑が馳せ参じ、みな等しく推仰しているのです。明公(姚萇)は心を降して議に従い、群衆の望みに沿うべきです。ただ座して彼らが沈溺していくのを見て、これを救わぬままでいてはなりません」と勧めた。 姚萇はこれを聞き入れて自立を決断し、大将軍・大単于・万年秦王を称すると、領内に大赦を下した(史家はこれをもって後秦の成立としている)。また、白雀という元号を定め、政務・事務全般を称制(皇帝...
苻堅との抗争
6月、苻堅は自ら歩兵騎兵2万を率いて姚萇征伐に乗り出し、北地の趙氏塢へ進撃した。また、護軍将軍楊璧らに遊騎3千を与えて退路を遮断させ、右軍将軍徐成・左軍将軍竇衝・鎮軍将軍毛盛らには水路を遮断させた。後秦軍はこれを阻もうとしたが、幾度も敗戦を喫した。後秦陣営には井戸が無かったので、前秦軍は安公谷を塞いで同官水に堰を造り、その運水路を遮断した。 当時、馮翊出身の游欽は衆数千を集めて頻陽に割拠しており、彼は姚萇に味方して水や粟を運んで届けようとしたが、楊璧がこれを尽く収奪した。後秦軍は水不足に喘ぎ、姚萇はこれを打開する為に弟の鎮北将軍姚尹買に精鋭2万を与え、堰を決壊させようとした。だが、鸛雀渠において竇衝率いる軍勢に敗れる事となり、姚尹買は戦死して1万3千の兵が討ち取られた。この事態に後秦の将兵は震えあがり、遂に渇死する兵も現れたが、そんな折に俄かに大雨が降り注いだ。陣営には三尺もの水溜まりが出来、さらに陣営の周囲百歩の範囲まで行き渡り、しばらくしてから降りやんだ。これにより後秦軍は士気を取り戻した。苻堅は食事中にこれを知り、食卓を離れて「天に心は無いのか。どうして賊営に恵を降らすか!...
新平・安定を攻略
10月、西燕君主慕容沖が長安への攻勢を開始したとの報告が届くと、姚萇は群臣を集めて今後の方針について議論した。群臣はみな「天下を制する為には、大王(姚萇)は先んじて長安を押さえ、事業の根本を建立すべきです。然る後に四方の経略に当たるのです」と勧めたが、姚萇は「それは違う。燕(慕容沖)は懐旧の士(郷里に帰る事を望む者達の事。慕容沖率いる鮮卑の民は、みな苻堅により関東から長安へ移住させられた者達であった)を擁して起兵しており、もし功を成して事が達せられたとしても、みな東帰の思を抱いているのに、どうして久しく秦川(関中)を固めようとするだろうか!我は嶺北(九嵕山の北部。新平・北地・安定一帯)に兵を移し、広く軍需物資を収集しようと考える。そうして秦(前秦)が弊して燕(慕容沖)が帰るのを待っていれば、然る後に何もせずともこれ(長安)を取る事が出来よう。そうすれば兵の命を失う事なく、座して天下を定める事が出来るのだ。これこそ、卞荘(春秋時代の魯の卞荘子)の得二の義である(卞荘子は2頭の虎を殺そうと考えたが、1頭の牛を両虎が食べているのを見て、敢えて両虎が殺し合うのを待った。果たして両虎は食糧...
皇帝即位
同年4月、姚萇は長安において帝位に即くと、領内に大赦を下し、建初と改元して国号を大秦と定めた。父の姚弋仲を景元皇帝と追尊し、妻の虵氏を皇后に、子の姚興を皇太子に立て、百官を設置した。自ら火徳をもって苻氏の木行を継ぐと宣言し、服飾については漢が周を継いだ故事(漢王朝は秦の正当性を否定し、周の後継王朝を標榜した)に倣うものとした。また、長安の呼称を常安と改めた。 6月、安定の民5千戸余りを長安に移した。 7月、後秦の左将軍姚方成は前秦の平涼郡太守金熙・安定都尉没弈干と安定郡の孫丘谷において交戦したが、敗北を喫してしまった。これを受け、姚萇は弟の征虜将軍姚緒を司隷校尉に任じ、長安を鎮守させると、自ら安定へ向かった。そして金熙らを撃ってこれを大破した。
王統を降す
かつて、姚萇の弟の姚碩徳は傘下の羌族を従えて隴上に割拠していたが、姚萇が挙兵したと聞き、自ら征西将軍を名乗り、冀城において衆を集めて呼応した。さらには兄の姚襄の孫の姚詳を安遠将軍に任じて隴城に拠らせ、従孫の姚訓を安西将軍に任じて南安の赤亭に拠らせ、前秦の秦州刺史王統と対峙するようになった。 同月、姚萇は安定より出撃し、姚碩徳と合流して共に王統を攻めた。天水の屠各、略陽の羌・胡2万戸余りが姚萇に応じ、前秦の略陽郡太守王皮(王猛の子)もまた降伏した。 9月、王統は大いに恐れて秦州ごと後秦に降伏すると、姚萇はこれを受け入れ、王擢を尚書郎に抜擢した。また、姚碩徳を使持節・都督隴右諸軍事・征西将軍・秦州刺史・領護東羌校尉に任じ、上邽を鎮守させた。 10月、安定に帰還すると、姚萇は徳政を修め、恵化を布き、不急の出費を省く事に努め、時弊から庶民を救わんと志した。また、庶民の中でも豪壮なるものがいれば、みな顕彰した。 同月、朔方に割拠する匈奴鉄弗部の劉衛辰は強大な勢力を誇っており、姚萇は彼を味方に引き入れようと考え、大将軍・大単于・河西王・幽州牧の地位を与えた。
苻登襲来
前秦の南安王苻登が南安を攻略し、夷人・漢人併せて3万戸余りを降伏させ、さらに姚碩徳の守る秦州へ侵攻した。姚萇は自ら救援に向かうも、胡奴阜(上邽の西に位置)において大敗を喫し、2万人余りが戦死した。この時、前秦の将軍啖青の放った弓に当たり、姚萇は怪我を負ったが、かろうじて上邽まで退却した。その為、姚碩徳が代わりに衆を束ねる事となった。後に苻登は皇帝に即位し、苻堅を殺害した姚萇への復讐を宣言した。 387年1月、姚萇は秦州の豪族3万戸を安定に移した。 4月、後秦の征西将軍姚碩徳は前秦の益州刺史楊定に迫られ、安定郡の涇陽まで後退した。楊定と前秦の魯王苻纂は共にこれを攻め、姚碩徳は大敗を喫した。姚萇は安定郡の陰密より救援に向かうと、苻纂は敷陸まで後退した。 7月、苻登はさらに後秦に逼迫し、瓦亭に屯営した。 同月、姚萇は盧水胡の彭沛穀の守る砦を攻めてこれを攻略し、彭沛穀を杏城まで退却させた。姚萇は陰密へ帰還し、皇太子姚興には長安を鎮守させた。
媄 子内親王(びしないしんのう)は、一条天皇の第二皇女。 母は皇后・藤原定子。同母姉兄に脩子内親王、敦康親王がいる。 生涯 生まれた翌日に母が亡くなり、その後藤原詮子(東三条院)の養女となった(1002年に亡くなった、定子の妹である御匣殿のもとで姉兄と共に育てられたとも)。
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2020年度. 貴州省 安順市 平壩区 の招果洞遺跡 [4] 浙江省 余姚市 の井頭山遺跡. 河南省 鞏義市 の双槐樹遺跡. 河南省 周口市 淮陽区 の時荘遺跡. 河南省 伊川県 の徐陽墓地. チベット自治区 ツァンダ県 の桑達隆果墓地. 江蘇省 徐州市 の土山二号墓. 陝西省西 ...
小野正嗣. この項目では、文筆家について説明しています。. 戦国時代の武将の小野政次については「 小野道好 」をご覧ください。. 小野 正嗣 (おの まさつぐ、 1970年 11月27日 [1] - )は、 日本 の 小説家 ・ 比較文学 者・ フランス文学者 。. 早稲田大学 ...