搜尋結果
王 垕(おう こう)は、中国の通俗歴史小説『三国志演義』に登場する架空の人物。 モデルになる人物は『 曹瞞伝 』に記録されているが、姓名不詳である。
王 翦 (おう せん、生没年不詳)は、 中国 戦国時代 の 秦 の将軍。 頻陽県東郷(現在の 陝西省 渭南市 富平県 の北東)の人。 王賁 の父。 王離 の祖父。 秦王政(後の 始皇帝 )に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、 趙 ・ 楚 を滅ぼすなど、秦の天下統一に貢献した。 白起 ・ 廉頗 ・ 李牧 と並ぶ 戦国四大名将 の一人。 生涯. 紀元前236年 (始皇11年)、 桓齮 ・ 楊端和 らと趙の 鄴 を攻めて、先ず9城を取る。 王翦は一人で閼与などを攻める。 それから、皆兵をあわせて一軍とした。 将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。 そして、それまで落とせなかった鄴などを落とす。
経歴. 秦王政 (始皇帝)のとき、 丞相 となった。. 始皇26年( 紀元前221年 )、秦が 中国 を統一すると、王綰は 馮劫 ・ 李斯 らとともに秦王を「泰皇」とし、その命を「制」とし、令を「詔」とし、天子の自称を「朕」とするよう上奏した。. 秦王政は泰皇 ...
王 廙 (おう よく、 咸寧 2年( 276年 )- 永昌 元年 10月9日 ( 322年 11月4日 ))は、 中国 の 晋代 の 軍人 ・ 政治家 。 字 は世将。 本貫 は 琅邪郡 臨沂県 。 王羲之 の叔父。 経歴. [ 編集] 尚書郎の王正の子として生まれた。 若くして文章を得意とし、多方面の才芸に通じた。 書画に巧みで、音楽や弓射や馬車の統御、 六博 や 囲碁 や雑伎を好んだ。 司馬越 に召し出されて太傅掾となり、参軍に転じた。 光熙 元年( 306年 )、 恵帝 を 洛陽 に迎えるのに参与し、武陵県侯に封じられた。 尚書郎に任じられ、 濮陽郡 太守 として出向した。 琅邪王 司馬睿 が江南に駐屯すると、王廙は太守の任を棄てて 長江 を南へ渡った。
王 粲 (おう さん、 熹平 6年( 177年 ) - 建安 22年 1月24日 ( 217年 2月17日 ))は、 中国 後漢 末期の文学者・学者・政治家。 字 は 仲宣 。 兗州 山陽郡 高平県(現在の 山東省 済寧市 微山県 )の人。 曾祖父は 王龔 。 祖父は 王暢 。 父は王謙。 子は男子二人。 文人 としても名を残したため、 建安七子 の1人に数えられる。 略歴. 曾祖父の王龔・祖父の王暢が共に 三公 に至ったという名門の家に生まれる。 父の王謙は 何進 の長史だったが、彼の縁組申し入れを拒絶した後、病気のため免職となり、家で亡くなった。 初平 元年( 190年 )、 董卓 の遷都により 長安 に移住した。
王 槩(おう がい、1645年-1710年以後)は、清の康煕年間に南京で活躍した文人、画家。詩文・画・篆刻にすぐれ、画は大幅の山水画を得意とし、人物・花鳥画も善くした。絵画教本『芥子園画伝』を弟二人とともに制作したことで最も知られる。初名は王匄。
王 禔(おう し)は、清末民初の篆刻家・書家。 もとの名は 寿祺 、後に禔と改名。 字 は維季、 号 は 福庵 ・ 福厂 ・ 鋤石農 ・ 微幾 ・ 屈瓠 ・ 羅刹江民 ・ 印傭 ・ 石奴 、70歳以降は 持黙老人 とした。