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屏風 (びょうぶ)とは、部屋の仕切りや 装飾 に用いる 調度品 の一種。 木の枠に小さな ふすま のようなものを数枚つなぎ合わせて折り合わせた構造である。 「風を屏(ふせ)ぐ」という言葉に由来する。 元々は、布団の枕元に立てて冷気を防ぐ風よけのためにあり、昔は屏風をすべて「枕屏風」と呼んでいた。 今ではそれに絵画などを描く美術品として扱われる。 歴史は古く、 中国 の 漢 時代には、すでに風よけの道具として存在していた。 魏 、 晋 、 南北朝時代 には、 王族 の贅沢な装飾品へと変化していった。 日本 では文献上は『 日本書紀 』に初めて屏風に関する記述がみられる [1] 。 日本における最も古い屏風は、686年に 朝鮮半島 の 新羅 より献上されたものだといわれている。
燕子花図(かきつばたず)は、尾形光琳による18世紀(江戸時代)の屏風。 燕子花図屏風 (かきつばたずびょうぶ)とも呼ばれる。 紙本金地著色(着色)。
間 (余白部分) この項目では、余白について説明しています。. その他の「間」については「 間 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。. 松林図屏風 の左部分。. 長谷川等伯. 間 (ま、 Ma )は、 "gap"、 "space"、 "pause"、を表す、ある2つの構造部分のあいだの ...
松林図屏風 (しょうりんずびょうぶ [1] )は、 安土桃山時代 の絵師・ 長谷川等伯 の代表作。 紙本墨画、六曲一双、各縦156.8cm横356.0cm(本紙部分のみ)の屏風画である。 「 美術史 上日本の 水墨画 を自立させた」と称される、 近世 日本水墨画の代表作の1つ。 国宝 。 東京国立博物館 蔵。 概要. 本作品には年記がなく制作年代は未詳であるが、等伯の作風の変遷から 文禄 2-4年( 1593 - 95年 )頃、長谷川等伯50歳代の作と推定されている。 文禄元年( 1592年 )等伯が祥雲寺障壁画(現・ 智積院 襖絵)を完成させた翌年、息子の久蔵が26歳で亡くなっており、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく自分自身のために描いたとも言われる。
風炉先屏風 (ふろさきびょうぶ)は 茶道具 の一つで、広間の点前の際に道具畳の向こう側に置く2つ折りの 屏風 のこと。 これを置くことによって、道具を引き立てる意味あいがある。 単に 風炉先 と呼ぶこともある。 高さ2 尺 4 寸 、片幅3尺5分、五分角、鳥の子白張、蝋色縁のものを基本とし、これを利休形と呼ぶが、実際には多種多様なものがある。 なお幅に関しては、利休形は 京間 の 畳 に合うように作られており、中京間、江戸間の場合は、その幅にあわせて作られる。 画面左手、炉の奥に立つのが風炉先。 カテゴリ: 茶道具.
鳥の子類には、間似合紙、色間似合紙、屏風紙、雲屏風紙、鳥の子紙、五色鳥の子紙、雲鳥の子紙、広鳥の子、土入り鳥の子紙などがある。半切り類には、名塩半切り紙、雑紙類には、名塩松葉紙、浅黄紙、柿紙、水玉紙、薬袋紙、油紙などがある。
戦国時代 最後の戦いの激烈さと 戦災 の悲惨さを迫真の描写で描き出し、数ある日本の合戦図屏風の中でも白眉と呼ばれる。 概要. 各隻150.3x360.7cmの大画面に、人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺 [1] などが精緻に描き込まれている。 右隻には 1615年 6月3日 ( 慶長 20年 5月7日 )大坂夏の陣最後の戦いの様子が、左隻には大坂落城間際、または後の大混乱する様を迫真的に描き出している。 全体的な構図は大坂城を中心に、向かって右が南、左が北で、右から左へ合戦の推移が時系列順に自然に展開するよう工夫されている。