雅虎香港 搜尋

  1. ファイル:India COVID-19 confirmed cases map.svg - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:India_COVID-19_confirmed...

    ファイル:India COVID-19 confirmed cases map.svg. この SVG ファイルのこの PNG プレビューのサイズ: 512 × 583 ピクセル. その他の解像度: 211 × 240 ピクセル | 421 × 480 ピクセル | 527 × 600 ピクセル | 674 × 768 ピクセル | 899 × 1,024 ピクセル 。. こ ...

    • Shanze1
    • English: Confirmed cases of COVID-19 cases in India by state and UT. This image is generated using daily data (MoHFW). Report inaccuracy
  2. ファイル:India COVID-19 cases density map.svg - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:India_COVID-19_cases...

    日付 2020年5月16日 原典 投稿者自身による作品; このベクター画像には、次のファイルから取得または適用された要素が含まれています: COVID-19 Outbreak Cases in India.svg. 作者

    • Shanze1
    • English: Map of cumulative COVID-19 cases in India by states and UT. Data source: MoHFW.
  3. ファイル:India COVID-19 active cases map.svg - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:India_COVID-19_active...

    武漢肺炎印度 疫情 zh.wikipedia.org での使用状況 2019冠狀病毒病印度疫情 メタデータ このファイルには、追加情報があります (おそらく、作成やデジタル化する際に使用したデジタルカメラやスキャナーが追加したものです ...

  4. ファイル:India COVID-19 deaths map.svg - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:India_COVID-19_deaths...

    武漢肺炎印度 疫情 zh.wikipedia.org での使用状況 2019冠狀病毒病印度疫情 メタデータ このファイルには、追加情報があります (おそらく、作成やデジタル化する際に使用したデジタルカメラやスキャナーが追加したものです ...

  5. アジアにおける2019年コロナウイルス感染症の流行状況 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/インドにおける2019年コロナ...

    アジアにおける2019年コロナウイルス感染症の流行状況では、アジアにおける新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行状況および対策、対応などを扱う。 2019年12月に中国 湖北省 武漢市で初めて症例が確認され、2020年1月以降、中国のみならずその他の国にも感 ...

  6. ペスト - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ペスト
    • 症状と病型
    • 原因
    • 治療
    • 予防
    • 歴史
    • 日本におけるペスト発生
    • 日本における対応について
    • 文芸作品
    • 関連法規
    • 参考文献

    多くの場合の潜伏期間は 2 - 7日で、全身の倦怠感に始まって寒気がし、39℃から40℃の高熱が出る。 その後の、ペスト菌の感染の仕方と症状の出方によって「腺ペスト」「肺ペスト」などに分類されている。 次のような病型に分類されている。

    ネズミ、イヌ、ネコなどを宿主とし、ノミが媒介してヒトに伝染する。ペストというのは元々は齧歯類(特にクマネズミ)に流行した病気であるので、まずネズミなどの間に流行が見られた後に、イヌ、ネコ、ノミなどを介して、ヒトに伝染して人間社会で感染が拡大する、という経緯をたどることが特に多い、と考えられている。 ヒトへの感染経路はノミによる感染が78%、ペットを含む小動物からの感染が20%となっている。

    適切な抗菌薬による治療が行われなかった場合、現在でも30%以上の患者が死亡し、腺ペストでの死亡率は30%から60%、肺ペストの場合はさらに死亡率は高まる。これはエボラ出血熱に匹敵する。ただしペストは早期に適切な抗菌薬を投与すれば20%以下に抑えることが可能である。 感染症指定医療機関に隔離され、株ごとに異なる感受性のある抗生物質による治療が行われる。代表的な例としてテトラサイクリン、クロラムフェニコール、ストレプトマイシン、ドキシサイクリン、シプロフロキサシン等が挙げられる。 治療薬としてフルオロキノロン系、アミノグリコシド系もしくはテトラサイクリン系の抗菌薬が使用される。

    予防策として、 1. 感染の予防策としてはペスト菌を保有するノミや、ノミの宿主となるネズミの駆除。 2. 腺ペスト患者の体液に触れない。 3. 患者部屋への立ち入りを制限。 4. 患者の 2メートル以内に接近する場合はマスク、眼用保護具、アイソレーションガウン、手袋の着用。 5. テトラサイクリン、ドキシサイクリン、ST合剤の予防内服。 が挙げられる。 なお、有効なワクチンは存在しない。コクラン共同計画によるシステマティック・レビューによれば、ワクチンの有効性について言及できる質の医学研究は見つからなかった。

    ペストはこれまでに3度にわたる世界的流行をみている。 1. 第1次は、6世紀の「ユスティニアヌスのペスト」に始まって8世紀末まで続いたもの。 2. 第2次は、14世紀に猖獗を極めた「黒死病」から17世紀末にかけてのもので、オスマン帝国では19世紀半ばまで続いた。 3. 第3次は、19世紀末から21世紀まで続くものである。 第2次のパンデミックは、1331年に中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るったのち貿易ルートに沿ってヨーロッパ、中東、北アフリカに拡散し、およそ8000万人から1億人ほどが死亡したと推計されている。ヨーロッパでは、1348年から1420年にかけて断続的に流行し。ヨーロッパで猛威をふるったペストは、放置すると肺炎などの合併症によりほぼ全員が死亡し、たとえ治療を試みたとしても、当時の医療技術では十分な効果は得られず、致命率は30%から60%に及んだ。イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街や村もあった。ペストによってもたらされた人口減は、それまでの社会構造の変化を強いられる大きな打撃を与えた。 中国のペストは19世紀に再び発生。1894年に世界的交易地だった英領香港に飛び火したためパンデミックを引き起こした。日本政府は北里柴三郎ら調査団を派遣し、同年6月12日に香港到着。北里は同14日にペスト菌を発見した(イェルサンとほぼ同時)。団員からも感染者が出たが北里は現地に留まり、石炭酸や石灰液による消毒が有効なことを突き止め、さらに患者の家に死骸が多くあったネズミが媒介しているとみられることを香港政庁に伝えた。

    日本においてペストは、明治以前の発生は確認されていない。最初の報告は、1896年(明治29年)に横浜に入港した中国人船客で、同地の中国人病院で死亡した。3月29日に横浜に上陸し、3月31日に死亡した。1899年(明治32年)9月、横浜沖での「亜米利加丸」検疫で船倉から高熱を出している中国人船員が見つかり、横浜海港検疫所の施設に隔離して検査したところペストと判明。関東上陸は阻止された。この時、検疫官補だったのが野口英世である。 だがその後、大小の流行が複数回あった。1899年(明治32年)11月が最初の流行で、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が広島で発病して死亡。その後、半月の間に神戸市内、大阪市内、浜松で発病、死者が発生した。1899年は45人のペスト患者が発生、40人が死亡した。 香港でペスト菌を発見した北里柴三郎の指導下、当局はペストの蔓延防止に努めた。翌年1月15日より東京市は予防のため、ネズミを1匹あたり5銭で買い上げた。火葬場で焼却されたネズミの霊を供養するための鼠塚が1902年(明治44年)、渋谷区の祥雲寺境内に建てられた。1901年(明治34年)5月29日、警視庁はペスト予防のため、屋内を除き跣足(裸足)での歩行を禁止(庁令第41号)。車夫・馬丁などの裸足を厳禁した。『日本』(新聞)によれば、10月6日横浜でペスト患者が発生し、10月30日発生地域の家屋12戸を焼き払い、12月24日には東京でペスト患者が発生した。最大の流行は1905-1910年の大阪府で、958名の患者が発生し、社会的に大きな影響を与えた。この際、紡績工場での患者発生が続いたことから、ペスト流行地のインドから輸入された綿花に混入したネズミが感染源というのが通説になった。1914年4月に東京でペストが流行し、年末までの死者は41人。1899年から1926年までの日本の感染例は2,905名で、死亡例2,420名が報告された。 1927年(昭和2年)以降は国内感染例はない[注 5]。

    感染症指定医療機関の指定状況

    2019年(平成31年)4月1日現在の日本国内における感染症指定医療機関の指定状況は、特定感染症指定医療機関が4医療機関(10床)で第一種感染症指定医療機関 が55医療機関(103床)である(うち2か所は特定感染症指定医療機関と重複している。)。

    検査方法

    細菌学的検査法については、国立感染症研究所で定められている「ペストの病原体検査・診断マニュアル」に従って実施する。 確定診断には、下記の要件が必要と考えられている。

    回復者管理

    入院しているペスト患者が退院する場合には、あらかじめ病原体を保有していないことを確認する必要がある。病原体を保有していないことの確認方法は、「感染症の病原体を保有していないことの確認方法について」に基づき検査を実施する。

    ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』(1349-51年) - 1348年のペストを題材とする。
    イブン・バットゥータ『大旅行記』- 14世紀のイスラーム世界におけるペスト被害の記述がある。
    シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(1595年頃) - 作中でペストが重要な役割を持つ。
    感染症法ではエボラ出血熱や天然痘などと共に一類感染症に指定されている。
    検疫法に基づく検疫感染症である。
    感染症法ではペスト菌は特定二種病原体(国民の生命及び健康に「重大な」影響を与えるおそれがある病原体)に指定されており、所持、輸入、譲渡し及び譲受けには厚生労働大臣の許可が必要となる。運搬には都道府県公安委員会への届出が必要である。所持者には帳簿を備える記帳義務が課せられる。
    米国CDCでは生物兵器として利用される可能性が高い病原体として、ペスト菌を最も危険度、優先度の高いカテゴリーAに分類している。なお、カテゴリーAにはペスト菌の他、炭疽菌、ボツリヌス菌、野兎病菌、天然痘ウイルス、エボラウイルスなどの出血熱ウイルスも指定されている。
    酒井シヅ『病が語る日本史』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年8月。ISBN 978-4-06-159886-7。
    石坂尚武編『イタリアの黒死病関係史料集』刀水書房 2017年12月。ISBN 978-4-88708-435-3
    ジョン・ケリー『黒死病-ペストの中世史』野中邦子訳、中央公論新社、2008年11月。ISBN 978-4-12-003988-1。中公文庫、2020年7月。ISBN 978-4-12-206914-5
  7. 九尾の狐 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/九尾の狐
    • 中国
    • 日本
    • 朝鮮
    • ベトナム
    • 参考文献
    • 関連項目

    中国での九尾の狐についての記述の古い例には、『山海経』(南山経)での九尾狐が挙げられる。「(青丘山には)獣がいる。外形は狐のようで、尾は九本。鳴き声は嬰児のようで、よく人を食う。(この獣を)食べた者は蠱毒(あるいは邪気)を退ける」という記述がある。『山海経』では他に海外東経・大荒東経に名称の記述がある。人を食べるという箇所があるが、霊験として辟邪の要素を付与されており、瑞獣としてあつかわれていることが見てとれる。 『白虎通』では、時の皇帝の徳が良いと世の中に現われる瑞獣の一つとして記されているほか、「九」という数字は子孫繁栄を示しているともあり、陽数を持った瑞兆を示す霊獣であるとしている。 武王を主役にした物語『武王軍談』、あるいは『封神演義』などの小説、その源流となった元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などでは、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている。これらの物語あるいはそれを下地とした書物での記述が、後の時代には漢文圏で広く知られるようになり、

    日本では平安時代ごろまで中国の書物に書かれた影響から九尾狐やキツネ全般は瑞獣のひとつとして認識されていたと考えられている。『延喜式』の治部省式祥瑞条には「九尾狐」の記載があり「神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し」とある。 日本では、九尾の狐の妖怪として玉藻前の登場する物語が有名である。平安時代に鳥羽上皇に仕えた玉藻前という美女の正体が「狐」であったという物語は、14世紀に成立した『神明鏡』にすでに見られる。しかし、室町時代の『玉藻物語』などでは尾が2本ある7尺の狐であると描写されており、九尾の狐とは語られていなかった。玉藻前が「九尾の狐」であるとされるようになったのは妲己が九尾狐であるという物語が玉藻前の物語に取り入れられるようになった江戸時代以降のことであると考えられる(妲己・九尾狐と玉藻前とについては、江戸時代前期に林羅山が『本朝神社考』の「玉藻前」の項目で『武王伐紂平話』の話を引いている)。玉藻前の正体が九尾の狐であるという設定の物語を日本に定着させたのは、読本作家の高井蘭山が著した読本『絵本三国妖婦伝』(1803年~1805年)や岡田玉山『絵本玉藻譚』(1805年)などの作品である。 一方、おなじく読本作家であった曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』において善玉である九尾の狐「政木狐」を登場させている。馬琴は玉藻前に代表される九尾の狐を悪玉であるとするイメージは『封神演義』などの物語に影響された近年のものであるとして退け、史書などを活用し、九尾の狐は元来瑞獣であるという考証を作品や随筆のなかで展開している。馬琴のように、九尾の狐は本来は神獣で、物語の上で悪い狐であると語られるのは俗説・荒唐無稽な創作である、という論考はそれ以前からもたびたび学者や文筆家などが指摘をしている。

    朝鮮半島でも中国の古典作品の影響があり、九尾狐はそのままクミホ(구미호、九尾狐)と呼ばれ知られている。物語などのなかにおいてクミホは美少女の姿に化けて男性をたぶらかしてその命を奪う、悪意ある存在として描かれる。クミホは人間になりたいと願っており、男性の命を奪うのも1000人分の心臓ないし肝を食すことで人間になるためという。 実在の道士で学者の田禹治(チョン・ウチ、14?? - 15??)について、クミホに愛されたという伝説が残っている。クミホは亡くなる直前、彼に特殊な玉(狐珠)を贈る。その効果によって「この世の理致に到達した道人」になったと語られている。 この伝説をモチーフにした作品として、1994年に『KUMIHO/千年愛(朝鮮語: 구미호 (영화))』が、2010年に『僕の彼女は九尾狐』が作られている。

    ベトナムにも中国の古典作品の影響があり、九尾狐(Cửu vĩ hồ)と呼ばれる妖怪が知られる。この九尾狐は、ハノイのタイ湖(西湖)に棲んでいたが、玄天鎮武神(真武大帝)によって退治された。玄天鎮武神は国内各地の真武廟に祀られている。最も古い真武廟は、ハノイの真武観(Den Quan Thanh)で、北宋年間に建てられたとされる。1472年にタイ湖(西湖)の南岸に移築された。

    『妖怪と幽霊』三栄書房〈時空旅人ベストシリーズ〉、2015年8月1日。ASIN B01285I51U。
    田川くに子「玉藻伝説と『武王伐紂平話』」『文藝論叢』、立正女子大学短期大学部文芸科、1975年、 8-13頁、 ISSN 0288-7193。
    ブ・フォン・アイン「人間世界に置いて存在し続ける妖怪たち―民間で作られた異界・不思議なものたちの立場―」『日本語・日本文化研修プログラム研修レポート集』第29号、広島大学国際センター、2014年10月30日、 32-49頁、 ISSN 0917-9755。
    二階堂善弘「東南アジアの玄天上帝廟」『東アジア文化交渉研究』第8巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2015年3月31日、 163-169頁。
    グリム童話 - 38話目『奥様きつねの結婚』に、尾が9本ある狐が登場する
    八尾狐 - 三代将軍徳川家光の夢に出てきて、患っていた病気が治ることを告げて去って行った狐。
  8. 元寇 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/元冦

    元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。 1度目を文永の役(ぶんえいのえ ...

  9. 文禄・慶長の役 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/文禄・慶長の役

    文禄の役 文禄の役『釜山鎮殉節図』 [注 1]。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 戦争:文禄の役 年月日:天正20年4月13日(1592年 5月24日)-文禄2年7月9日(1593年 8月5日) 場所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 ...

  10. 高橋瑞子 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/高橋瑞子
    • 経歴
    • 論文
    • 慈善活動
    • 和歌
    • 没後
    • 人物
    • 年譜
    • 関連作品
    • 参考文献
    • 関連項目

    少女期 - 医学志願以前

    三河国幡豆郡西尾(後の愛知県西尾市鶴ヶ崎町)で、中級武士である西尾藩藩士の家に誕生した。父は高名な漢学者とも言われ、和漢の学に造詣が深かったことで、瑞子は強い向学心を抱いて育った。幕末の動乱により、父は没落士族となり、生活は楽ではなかった[* 3]。1862年(文久2年)、瑞子が9歳のときに父が病死し、母も間もなく死去した。 高橋家の家督は、長兄夫妻が継いだ。瑞子は兄たちが漢学を学んでいた影響で、自らも学問を望んだが、兄から「女に学問は不要」と希望を絶たれた。裁縫の教えを兄嫁に乞うたが、兄嫁に無視されたため、瑞子は既成の着物を解いて構造を研究し、自力で裁縫を身につけた。この頃より、他人に頼らず自力で道を突き進んでゆく性格は顕れていた。 1877年(明治10年)、東京の伯母から「養女に迎えたい」と乞われて上京したが[* 4]、伯母の家ではすでに養子が迎えられており、結婚を前提とした話であった。伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出た。 生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の...

    産婆修行

    当時の東京で、女性が1人で自活していくことは並大抵のことではなかった。瑞子は手に職を付けることを考え、産婆(助産師)への道を志した。良妻賢母の思想が根強く、女性が仕事に就くことが困難であった当時、産婆は例外的に女性のみが勤めることのできる稀有な職業であり、その上、収入も安定し、政府や地域社会に認められた職業でもあった。 産婆会の会長である津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、1879年(明治12年)、瑞子は前橋に移り、知人の紹介により、磯の助手として住み込みで勤めた。瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至った。磯の没後に建立された後述の顕彰碑にも、瑞子のことが「従遊もっとも久しく、学術最も勝る」と記載されている。 折しも1876年(明治9年)に、東京府で産婆教授所が設置されて以来、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期であった。磯は瑞子に、正式に産婆学を学ぶことを勧めた。1881年(明治14年)、瑞子は産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾(後の東京産婆学校)で学んだ。学費は磯が援助した。瑞子は...

    医学への転身

    磯は瑞子を自分の後継者にと考えており、自分の息子の妻にと考えていたともいうが、瑞子は東京での産婆開業資格を取得後、前橋に戻らずに東京に留まり、医師を志した。 産婆から医師への転身の理由については、以下の説が唱えられている。 1. 内職程度では自立が困難なことから、最初から収入の多い職業として医師を志しており、産婆はその医師の学費を稼ぐための手段だった。 2. 先述のように医師と産婆の違いを明確に理解したことから、産婆では救いきれない命があると考えた 3. 高い向学心により、産婆の仕事に満足できなかった。 4. 磯の夫が産婦人科医であり、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことが事情にあった。 吉岡彌生はこれらの内、最初から医師を志していたとの説を支持し、自著において以下の通りの推測を述べている。 しかし当時、女性は医学校の入学も、医師開業試験も受験資格がなかった[* 7]。1883年(明治16年)、瑞子は持ち前の行動力から、内務省衛生局長である長與專齋に直訴して、現状を訴えた。長與の返事は「もうしばらく待て」とのことであった。瑞子はこれを良い感触と受取り、勉強のため...

    下記の論文の内の一つ、「母体ノ脚氣ト小兒ノ腸胃症トノ關係」は、乳児の脚気を例証した論文である。明治期、特に1890年代末から1910年代初頭にかけての脚気による死亡数は1万人を超え、その約5パーセントが乳幼児であった。瑞子はドイツ留学を経験した専門医として、乳児の死亡率の現認を追及して、乳幼児の救済に努めようとしたものと見られている。 1. 「母体ノ脚氣ト小兒ノ腸胃症トノ關係(通常會所演)」『順天堂医学』M25第41号、順天堂医学会、1892年、 1006-1010頁、 NAID 130005081026、2020年10月21日閲覧。 2. 「小兒ノ疫咳ニ併發セル肺炎及腦溢血患者ノ一例」『順天堂医学』M36第361号、1903年、 72-74頁、 NAID 130005082700、2020年10月21日閲覧。 3. 「稀有ナル半身麻痺ノ一例」『児科雑誌』第69号、日本小児科学会、1906年2月、 25-28頁、 全国書誌番号:00009743。

    瑞子が最初に開業した翌年の1889年(明治22年)12月26日、読売新聞の「慈善」の欄に、瑞子が東京の育児施設である福田会の恵愛部に寄付を行ったことが掲載されている。福田会は貧窮状態にある児童の救済のために設立された施設、恵愛部は福田会に創設された婦人部である。当時は明治維新の最中、政府が体制の不十分なままで富国強兵や殖産興業などの政策を推進したことで、人々の生活が混乱して困窮し、特に士族は廃藩置県や版籍奉還に伴って特権を失い、生活が悪化を始めていた。瑞子もまた士族出身で、恵まれない幼少時を過ごした過去があることから、多くの母子を救済したいと考えていたものと推察されている。 ドイツ留学から帰国後は、産科に限り貧窮者の無償施療を始めており、1892年(明治25年)5月20日の読売新聞、1898年(明治31年)7月5日の東京朝日新聞などに、その旨の広告が掲載されている。当時は多産であり、中流家庭でも出産へ要する費用の捻出が困難で、適切な助産行為を受けられる者が少なかった。また1890年代末の妊産婦死亡率は、後の平成期と比較すると百倍以上に達し、当時の出産は非常に危険なものといえた。こうしたことから瑞子の施した産科施療は、母子、特に貧困者層の保健衛生の向上に対して、大きな影響を与えたといえる。 さらに貧窮者への支援として、小児科医として種痘医の資格を所持していたことから、予防接種のために孤児院へも出向いていた。1906年(明治39年)6月18日の朝日新聞には、瑞子が乳児院で無償で種痘治療を行ったと報じられている。日本での種痘は幕末から普及していたが、その努力も及ばず、1886年(明治19年)には死者は天然痘による18000人以上に上り、最も恐ろしい伝染病の一つといえた。政府はこの予防のため1876年(明治9年)に種痘医規則や天然痘予防規則を定めたことから、瑞子もまた子供たちの命を守るため、無償で種痘医療に努めたと考えられている。

    瑞子が晩年に嗜んでいた短歌は、没後に私家版の歌集『瑞雲集』として発行された。以下の歌はいずれも、同歌集に収録されている。 1. ふるさとのこともわすれて浪まくら 夢むすふまてなれにける哉 1.1. 津久井磯の顕彰碑の除幕式へ向かう道中で詠んだ歌。大意は「故郷のことを忘れて船路へ出たことも、今では夢のようになってしまった」。かつてはドイツ留学まで果たした激動の人生も、引退後の瑞子にとっては夢のようなことであり、完全に職業人としての第一線を離れていた心情が窺える。 2. わかれをば おしまん人もなき身なり 心もかろく いざいでたたむ 2.1. 辞世の句。大意は「慣れ親しんだ人もいなくなった、あるいは、もともといない。気楽にあの世に旅立てよう」。人生に思い残すことなく死後の世界に旅立てるとの思いを表しており、瑞子の潔い性格、自ら決めたことを違えない性格が表現されている。 この他に、喘息の療養のために滞在した熱海の梅園、1923年(大正12年)に体験した関東大震災なども短歌に詠まれている。これらの和歌について、北海道立文学館の学芸主幹である新明英仁は、「ストレートな表現、技法であり、瑞のたくましさや強さが感じられる作品である」と評価している。また文芸評論家の勝本清一郎や、瑞子の郷里である西尾市の『西尾市史』の編纂委員を務めた礒貝逸夫は、以下のように述べている。 『瑞雲集』は基本的に活版印刷だが、瑞子の直筆の短冊の写真もいくつか収められている。瑞子が書道を習ったことは確認されていないが、その文体は「優しくたおやかな文体」「線は太目、ふっくらと大らかな達筆で、その人柄が反映されているようだ[* 19]」などと評価されている。

    東京女医学校(後の東京女子医科大学)設立者である吉岡彌生は、済生学舎での瑞子の後輩にあたり、瑞子と親交があった。瑞子は70歳のとき胆石を患い、晩年の病床を見舞った吉岡に、瑞子は「私の体を解剖して、学生たちの研究に役立ててほしい。骨も焼いては勿体ないので、標本にして教材にしてほしい」との遺言を遺していた。この遺言は、1921年(大正10年)6月10日の読売新聞東京朝刊に掲載された。 没後は遺志に基づき、遺体は東京女医学校で解剖実習に供された。執刀は同校教授の佐藤清の執刀、立会人は女医の連絡機関である日本女医会の評議員たちが務めた。解剖後の遺骨は骨格標本「高橋先生のお骨」として、東京女医学校の校宝として保存され、太平洋戦争の空襲で病院が焼失する中でも守り抜かれた。吉岡は「死してなお医学のために尽くそうとするこの大先輩の意気に打たれないではいられませんでした」と、瑞子を称えた。 女性史研究家の村上信彦は自著『明治女性史』において、瑞子をこう嗟嘆した。 吉岡彌生は、日本初の公許女医である荻野吟子を引き合いに出して、「荻野(吟子)さんが日本の女医の生みの親だとすれば、育ての親に当たるのが3番目に女医になった高橋瑞子さんであります」と語った。瑞子の開業の前年に日本第2の公許女医となった生沢クノもまた、1943年(昭和18年)1月の『日本女医会雑誌』からのインタビューに対して、日本女医の道を開拓した人物として瑞子の名を挙げた。 墓碑は郷里の愛知県西尾市の盛厳寺に、瑞子が父のために建立した碑と共にある。ただし、上述の通り検体して東京女子医科大学に遺骨が保存されていること、また独身で子供もおらず、遺骨を持ち帰る遺族もいなかったであろうことから、この墓に遺骨は収められていないと考えられている。また瑞子が生前に、東京都世田谷区の豪徳寺の住職と親交があった縁で、1933年(昭和8年)に近親者により、豪徳寺に記念碑が建立された。 2011年(平成23年)には、瑞子の骨標本を新たに調査した結果、妊娠の経験の可能性が発見された。瑞子はかつての貧窮時代の語りを嫌うことで知られるが、この新たな発見により、瑞子があまり語っていなかった過去の貧窮時代の妊娠、出産の可能性が高いことが示唆された。男性との同棲や結婚の経験も、この可能性の高さを裏付けている。しかし瑞子が子供を出産して、育てたという記録は...

    骨太で男勝りの体格であり、髪も短髪であった。ドイツ留学時、日本公使館の館員たちは、瑞子を見て驚き、後年「板額の生まれ変わりみたいな中婆さん[* 21]」と回顧した。50歳を越える頃には肥満が進行し、裾がはだけて歩きにくいので、袴を着用した。「まるで女の相撲取り」とも言われた。没後の遺体解剖所見の内容を一部要約すると「身長約145センチメートル、骨太、大変な肥満」であった。また「脳髄の発育は極めて良好」「脳内質に異常なし」とあることから、76歳の老体にもかかわらず、思考や感性の衰えはなく、痴呆の傾向もなかったことが示されていた。瑞子を主人公とした小説『骸骨哄笑』を著した杉本苑子も、その容姿を「商売を切って回す大店(おおだな)のお内儀、大きな料亭で睨みをきかす、やり手の女将(おおおかみ)」と表現した。 済生学舎への入学やドイツ留学の逸話が物語るように、型破りな個性の持ち主であった。男物の服を身につけ、道を行く際には、荷物を風呂敷で包んで首に巻き付け、肩を揺さぶって歩いた。酒もたばこも好んだ。夏季は湯文字と羽織だけを着て、大きな乳房を晒して平気で人前に出た。人力車に乗り、走り方が少しでも遅いと「這ってるのかい? もっとキリキリ飛ばさんかい」と、太くて低い、凄みのある声で叱咤した。その姿は日本橋の名物の一つともいわれ、下町の女性たちからも憧れられた。 思い切りが良く、思い立ったら行動に移した。物おじもせず、負けん気が強い性格であった。窮状を抱えても決して表情には出さず、むしろ笑い飛ばした。順天堂医院に研修を断られたときも、隣人(佐藤進の甥)から同情されても「女は駄目だって言われてしまいました」と笑うだけだった。彼が佐藤に研修を進言したのは、この性格を気に入ったためとの説もある。豪徳寺の記念碑にも、その人物像を「女傑」と刻まれている。 その一方で、ドイツからの帰国後に何度か移転し、瑞子の家を買った者が、関東大震災で家を失うと、瑞子は不運な買い手への慰謝として、残金を棒引きにした上に、見舞金まで贈るなど、人情家の一面もあった。周囲からは「瑞さん」の名で呼ばれ、親しまれた。窮状を救ってくれた恩人へは礼を尽くし、医師として名を成した後には、書生たちを一人前に育て上げるために学費を援助し、その支援により工学博士や医学士となった者も多かった。反戦ジャーナリストとして知られる桐生悠...

    1852年12月5日(嘉永5年10月24日) - 三河国幡豆郡西尾で誕生
    1862年(文久2年)10月- 父が病死、母も間もなく死去
    1877年(明治10年) - 東京の伯母から乞われて上京、しかし約1年後に家を出る
    1879年(明治12年) - 前橋の産婆会の会長である津久井磯の助手として勤める
    一ノ関圭『女傑往来』『女傑走る』
    田中ひかる『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』
    秋山聾三『日本女医史(追補)』日本女医会、1991年4月。NCID BN0666606X。
    石原あえか「高橋瑞子の骨格標本を眺めて」『三田文学』第90巻第105号、三田文学会、2011年5月1日、 NCID AN00396849。
    石原あえか『ドクトルたちの奮闘記 ゲーテが導く日独医学交流』慶應義塾大学出版会、2012年6月18日。ISBN 978-4-7664-1950-4。
    礒貝逸夫『岩瀬彌助の生涯』三河新報社、1990年11月3日。NCID BN06053300。
  11. 其他人也搜尋了