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  1. 開心那 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 開心那

    2020年東京オリンピックの選考対象大会である2021年5月のデュー・ツアーで5位に入り、中村咲を抜いて世界ランキング日本勢3番手についたことで、日本代表入りした [3]。12歳11ヶ月での夏季オリンピック出場は、日本人史上最年少とされる [注 1]。

  2. 貴乃花光司 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 貴乃花光司

    貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年 8月12日 - )は、東京都 杉並区出身の二子山部屋(入門時は藤島部屋)に所属した元大相撲 力士で第65代横綱である。 本名は花田 光司(はなだ こうじ) [2]。愛称は「」、「コウジ」。相撲協会退職後は本名や「元 貴乃花親 ...

    • 貴花田 光司→貴ノ花 光司→貴乃花 光司
    • 花田 光司
  3. 仁祖 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 仁祖
    • 家族
    • 生涯
    • 日本との関係
    • 家系

    第14代国王宣祖の庶5男定遠君(チョンウォングン)李琈(元宗)の長男として生まれた。母は左参賛・具思孟の娘である仁献王后である。幼名は天胤、諱は倧、字は和伯、号は松窓といった。1607年12歳で綾陽君(ヌンヤングン、りょうようくん)に奉じられている。王妃は韓浚謙の娘である仁烈王后(インリョルワンフ)で4男が生まれた。後添えの妃は趙昌遠の娘である荘烈王后(チャンリョルワンフ)で子はなかった。第15代国王光海君の甥にあたる。実弟に綾原大君(朝鮮語版)(ヌンウォンデグン、りょうげんだいくん、1598年 - 1656年)、綾昌大君(朝鮮語版)(ヌンチャンデグン、りょうしょうだいくん、1599年 - 1615年)、綾豊君(ヌンプングン、りょうほうくん、夭逝)がいる。

    生誕

    壬辰倭乱により父の定遠君が海州へと逃れた時分に誕生。生まれたときには、赤い発光という超常現象が発生した。スピーチなどでしゃべるのは苦手だったことから、吃音症ではないかともいわれる。かわりに、文字の学習は早かったことから祖父の宣祖に可愛がられた。右足にいぼがあったため、漢の高祖の再来とされた。

    仁祖反正

    綾陽君は本来王位を望める立場ではなかったが、明と後金が満州で対峙する国際情勢の中で中立政策を維持する第15代国王・光海君を生ぬるいとする西人派が1623年3月13日、宮中(宮廷)クーデターによって光海君を廃位し、仁祖を擁立して即位させた(西人の乱。朝鮮史上では仁祖反正という)。翌年、平安道で李适(朝鮮語版)の反乱が起り、一時ソウルを占領したが、間もなく鎮圧された。生き残った者は満州に逃れ、後金に仁祖の王位簒奪を告げた。

    相次ぐ侵略

    西人派政権は国際情勢に暗く、親明反後金政策を鮮明にし、明将毛文龍の鉄山(平安道)進駐を認めた。毛文龍は鉄山を根拠地としてしばしば後金の背後を襲ったため、後金主ホンタイジは1627年、アミン(阿敏)に3万の兵を授けて朝鮮討伐に向かわせた。後金軍は鴨緑江を越え、平安道の平壌を占領して中和まで達し、鉄山の明軍も蹴散らし、毛文龍は海島に逃れた。朝鮮の部将で後金に抑留されていた姜弘立の斡旋によって朝鮮側が和議に応じ、兄弟の盟約を結んだので、後金軍は引き返した (丁卯胡乱)。 その後、後金は遼西地方にも勢力を拡大して、国号を清と定め、瀋陽に遷都している。皇帝を名乗ったホンタイジはこれまで兄弟の関係であった朝鮮に君臣の関係を結ぶように迫った。朝鮮朝廷では和戦双方の議論が戦わされ、李貴(朝鮮語版)、崔鳴吉、洪瑞鳳(朝鮮語版)らクーデターの功臣は主和論を主張したが、大勢は名分論を振りかざす主戦論が優勢となり、朝鮮は清皇帝を認めず宣戦を布告するに至った。1636年1月、ホンタイジは10万の兵を率いて疾風のように鴨緑江を越え、わずか5日目にソウルを蹂躙した (丙子の乱)。 仁祖は当初、江華島に逃れて抗...

    朝鮮通信使は前王光海君の時代に回答兼刷還使として始められ、1607年と1617年に日本へ派遣されているが、仁祖の代になってからも1624年、鄭岦を正使、姜弘重を副使とする回答兼刷還使が3代将軍徳川家光の襲職祝賀のために派遣されている。再三日本側から通信使派遣の要請があったのにもかかわらず回答兼刷還使を派遣したのは、朝鮮の役の戦後処理を派遣目的とさせていたためである。 正式に信(よしみ)を通わす使者として通信使が日本に派遣されたのは、1636年の任絖を正使、金世濂を副使とする通信使を日本に派遣した時からである。翌年正月に三田渡の盟約によって清の冊封国となったので、本格的に日本との安定的友好関係を築こうとしたからであろう。このため、通信使任絖らは日本に朝鮮が大清の傘下に入ったことを伝えると共に南方物産確保のために特別に日本に赴いたものである。1642年2月、江戸幕府は対馬藩を通じて徳川家綱の誕生と日光の東照宮が完成されたことを祝う通信使の派遣を朝鮮に要求した。さらに東照宮の境内を飾るのに必要な国王の御筆、大蔵経、梵鐘、香炉などの贈り物も供与するように要請しており、仁祖は自らの御筆と叔父義昌君が書いた扁額を作成し、崔鳴吉らの重臣に祝賀詩文を書かせた。徳川家康の功徳を讃える銘文が刻まれた梵鐘も制作した。以上の贈り物は翌1643年に尹順之を正使、趙絅を副使とする通信使が訪日した際に幕府に贈られた。歴代の朝鮮国王のなかで3回も通信使を日本に派遣したのは仁祖と第19代国王の粛宗だけである。

    祖父: 宣祖(1552年 - 1608年)
    嫡祖母: 仁穆王后金氏(1584年 - 1632年)
    祖母: 仁嬪金氏(1555年 - 1613年)
    父: 定遠君/元宗李琈(1580年 - 1620年)
  4. 保甲制度 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 保甲

    清代以前 保甲制度の起源は、遠くは秦の商鞅による法に由来する。 商鞅の法は、「民ヲシテ什五ヲ為シテ、相ヒ収司連坐セ令ム」とし [1]、すなわち5戸で構成される「什五」という組を設け連帯責任を負わせた。その後、宋の王安石により、保甲制度が確立された。

  5. ドクメンタ - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › ドクメンタ
    • 前衛芸術の復権
    • 世界の最重要な展覧会へ
    • 冷戦後の混乱

    第1回は1955年に当地在住の美術家、建築家、教師でもあったアルノルト・ボーデが提唱し、同年カッセルで開催された「第3回西ドイツ連邦庭園見本市」の行事の一環として開催された。戦後ドイツの芸術の復興を掲げ、ナチ独裁体制下で退廃芸術として弾圧されたモダン・アートの名誉回復をはかり、20世紀の重要な前衛芸術運動の作家たち(パブロ・ピカソ、ピエト・モンドリアン、ジャン・アルプ、アンリ・マティス、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エミール・ノルデほか多数)の業績を振り返る内容の展覧会であった。ボーデのこの計画は国の内外から大きな反響を得、以後ドクメンタは現代美術の動向を映し出す展覧会として確立されるようになる。 この展覧会は第二次世界大戦以後、「文化と芸術の国」から「ファシズムと芸術破壊の国」へとイメージダウンしたドイツ国家のイメージ回復や文化的復権をも意図していた。また東西ドイツ国境で開催することで将来の統合後のドイツの地理的にも文化的にも中心地となることを目指したが、冷戦継続により当面は東側に対する西側(欧米)の自由で先端的な美術のショーケースとして開催されることを余儀なくされた。ゲルハルト・リヒターをはじめ、多くの東ドイツの芸術家がドクメンタを訪れた後に東ドイツからの脱国を決意した。

    第2回以降はカッセル市やヘッセン州の出資による「ドクメンタ有限会社」が設立され、以来現在までこの会社の企画・運営によって当初はほぼ4年に一度、現在はほぼ5年に一度開催されている。 1. 第2回は回顧展から一転し、同時代の(西欧の)美術動向をまとめた展覧会となった。 2. 第3回以降は展覧会は同時代の美術の動向を端的に示すような主題(テーマ)が決められ、それに沿った作品が発表される。 3. 第4回以降は物故者を除くことになり、同時代の作家だけの参加となり同時代美術(現代美術)のみが展示されるようになった。これにより、美術の現実性・現代性をより反映した展覧会となった。 3.1. このころ、世界最大の美術展ヴェネツィア・ビエンナーレ(国ごとのパビリオンが賞を競う形式の展覧会)が「美術界のオリンピック」としてアメリカ、フランスほか大国同士のメダル争いの場となり、巨額の資本が動く現場と化して、美術の動向を考える場として有効に機能しなくなったため、国別展示ではなくテーマ展であるドクメンタの「世界最大の現代美術展」としての重要性が非常に高まった。 4. 第5回以来、ディレクター(芸術総監督)が任命され、テーマや作家選定はディレクター個人に一任されることになり展覧会の訴えたい内容がより明確になった。特に第5回はハラルド・ゼーマン(1933年~2005年、スイス生まれ)が任命され話題となった回であった。彼は1969年にベルンで「態度が形になるとき」(When Attitudes Become Form)というコンセプチュアル・アートの伝説的な展覧会をまとめ上げた当時気鋭のキュレーターで、彼の監督した第5回はヨーゼフ・ボイスらを大々的に起用し多くのハプニングやパフォーマンスアートを実行させ「美術とは何か」を問うたドクメンタ史上最も美術界に対するインパクトが大きい展覧会であった。しかし観客の評判が悪く展覧会は赤字に終わり、カッセル市が彼を告訴するほどであった。以降、ディレクターの人選と手腕、打ち出すテーマが毎回賛否両論を呼ぶようになった。

    ドクメンタは毎回白人男性がディレクターであったため必然的に選ばれる作家も西欧か北米の作家が多く、偏りが指摘されていた。特に1980年代にはアジアや中南米、アフリカの作家を取り上げる展覧会が各地で開催され風向きを変え(例:「大地の魔術師たち」展、ポンピドゥー・センター)、またフェミニズムが美術の世界でも影響を強め第三世界の作家や女性作家を取り上げることも課題となった。 そして冷戦後、ドクメンタは対東側の美術戦略拠点としての役割を終えた。現代美術自体が欧米だけでなく旧東側諸国やアジア・アフリカ・中南米など多様な国からも発信されるようになり、それらを一括りに定義付けることは困難になり、もはやドクメンタの意義は薄らぎ形骸化したかのように指摘されるようになった。 1. 冷戦終結後初の第9回(1992年)ではベルギー人のヤン・フートがディレクターに選ばれたが、統一テーマは設けられなかった。また物故者であるにもかかわらずヨーゼフ・ボイスの作品が出展された。37カ国からの作家が選ばれ日本人は川俣正、舟越桂、竹岡雄二、片瀬和夫、長沢英俊が出展したが、欧米中心のきらいはあり近郊ではドクメンタに対抗した『他文化との遭遇展』が開催された。 2. 1997年の第10回で初の女性ディレクター、フランス人のカトリーヌ・ダヴィッドが就任。欧米中心の作家選定であったが、会期中毎日レクチャーを行い、コンセプチュアルアートや映像・写真を中心とした意欲的な展示を行った。 3. 2002年の第11回は一転し、初めてのアフリカ出身者であるナイジェリア人オクウィ・エンヴェゾーがディレクターに就任し「グローバリゼーション」を主題にした。多様な国からの作家参加と、旧植民地や内戦をテーマに極めて政治性・社会性の強いドキュメンタリー的な映像作品の多さが特徴であった。他都市での巡回展との共催、シンポジウムなどを積み重ねて展覧会本番に結びつける展覧会作成のプロセスなど、いくつかの手法がわかりにくいと批判されたが今後の展覧会のあり方の参考として注目も浴びた。 4. 2007年の第12回はロゲール=マルティン・ビュルゲルがディレクターとなり、「近代は我々の古代/過去か」「グローバリゼーションの中での剥き出しの生とはなにか」「美術の教育において我々は何をなすべきか」の3つを大まかなテーマとした展示が行われた。会場はカッセル...

  6. 北野貴章 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 北野貴章

    ... Kitano、1986年 3月2日 - )は、テレビ朝日総合編成局制作1部所属(バラエティ制作部)のプロデューサー・演出家。 大阪府立北野高等学校、京都大学 経済学部卒業。 『しくじり先生 俺みたいになるな!! 』の企画・演出を担当しテレビ朝日ゴールデン帯史上最 . ...

  7. 陸奥亮子 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 陸奥亮子
    • 来歴
    • 陸奥亮子を扱った作品
    • 参考文献

    旗本・金田蔀の妾が生んだ長女として江戸に生まれる。明治の初め、東京新橋にある柏屋の芸者となり、小鈴(小兼)の名で通る。板垣退助に愛された小清とならんで「新橋の双美人」と呼ばれ、新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。花柳界に身を置きながら、男嫌いという評判もあり、身持ちも堅かったといわれるが、結局は明治5年(1872年)2月、陸奥宗光の先妻蓮子[注釈 2]が亡くなり、同年5月に17歳で客である宗光の後妻となった。 先妻の遺した子は、長男・広吉[注釈 3](1869年 - 1942年)と次男・潤吉[注釈 4](1870年 - 1905年)の2人だった。結婚の翌年、宗光との間に長女・清子(さやこ)が生まれ、明治10年(1877年)には舅にあたる伊達宗広が死去している。 明治11年(1878年)、政府転覆運動に荷担した疑いで夫の宗光が禁固5年の刑に処せられ、山形監獄[注釈 5](のちに宮城監獄)に収監された。亮子は、宗光の友人の津田家に身を寄せて姑の政子に仕え、子育てをしながら獄中の宗光を支えた[注釈 6]。宗光は亮子にたくさんの手紙を書き送っており、宮城監獄収監中に相愛の夫婦の慕情を漢詩にして亮子に贈っている。 明治15年(1882年)、宗光は特赦によって出獄を許され、翌明治16年から伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。宗光が外遊の間に亮子に宛てた書簡[注釈 7]は50通を越える。明治19年(1886年)、宗光は帰国して政府に出仕する。社交界入りした亮子は、伯爵戸田氏共の夫人・極子[注釈 8]とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。 明治21年(1888年)、駐米公使となった宗光とともに渡米する。その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。明治26年(1893年)、宗光とのあいだにできた清子が亡くなった。まだ、20代前半の若さであった。 明治30年(1897年)の宗光の死後、宗光と祇園芸者との間に生まれた金田冬子を引き取り、育てた[注釈 9]。亮子は明治33年(1900年)8月15日、45歳で亡くなった。腫瘍が転移した為だった。冬子は亮子の死後、宗光の長男・広吉の養女として陸奥家に入ったが、1904年5月22日亡くなった。

    小説

    1. 大路和子『相思空しく 〜陸奥宗光の妻亮子〜』(新人物往来社、2006年12月)ISBN 4404034377 2. 山田風太郎『エドの舞踏会』(文藝春秋、1983年) 2.1. 『エドの舞踏会』(筑摩書房、〈ちくま文庫・山田風太郎明治小説全集8〉、1997年8月) ISBN 4480033483

    演劇

    1. 『妻たちの鹿鳴館』(明治座ほか、原作『エドの舞踏会』)

    下重暁子『純愛―エセルと陸奥広吉』講談社、1994年12月。ISBN 978-4062073561。
    『新聞集成明治編年史. 第十一卷』新聞集成明治編年史編纂会(編)、林泉社、1936-41。NDLJP:1920419。
  8. クシャーナ朝 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › クシャーナ
    • 歴史
    • 文化
    • 経済
    • クシャーナ史の論点
    • 歴代王
    • 脚注
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    大月氏

    紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。『漢書』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯,貴霜翕侯,雙靡翕侯,肸頓翕侯,高附翕侯[注釈 1]の五翕侯[注釈 2]を置いて分割統治したという。それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と称すようになった。 大月氏の諸侯はそれぞれコインを発行していたが、貴霜翕侯が発行したコインは他の諸侯の発行したコインに比べ数も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか鋳造されなかった。

    クシャーナ朝の成立

    貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠はヘライオス(英語:Heraios)と言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛々たる状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。1世紀初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯はクジュラ・カドフィセス(中:丘就卻)の下で他の四翕侯を全て征服して王を号したと『後漢書』西域伝には記されており、一般にこれをもってクシャーナ朝の成立と見なされる。また、クシャーナ朝は大月氏の一派であるとも[注釈 3]、土着のイラン系有力者であるともいわれる[注釈 4]。 クジュラ・カドフィセスはカーブル(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(又はヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。[注釈 5]さらに濮達(ぼくたつ)と罽賓(けいひん:ガンダーラ?)を征服しパルティア領(インド・パルティア王国)の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王ゴンドフ...

    カニシカ王と後継者

    ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現: ペシャーワル)におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。 カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。 カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。 軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位...

    王号

    クシャーナ朝はユーラシア大陸の中央部の広い領域を支配したため、各地の文化の大きな影響を受けた。その文化は包容的、融合的性格を持ったといわれており、特にその特徴は王の称号に現れている。 例えばカニシカ王の残した碑文の中には「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」と記す物がある。これはカニシカが使用した称号を羅列したものであるが、 1. シャーヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の称号である。 2. ムローダ(Muroda)はサカ人たちの首長を表す語である。 3. マハーラージャ(Maharaja)はインドで広く使われた称号であり大王を意味する。 4. ラージャティラージャ(Rajatiraja)は「諸王の王」(シャーハンシャー)というイラン地方の伝統的な帝王の称号をサンスクリット語に訳したものである。 5. デーヴァプトラ(Devaputra)はデーヴァ(神、漢訳では天と訳される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた称号「天子」をサンスクリット語に訳したものである。 6. カイサラ(Kaisara)はラテン語...

    美術

    カニシカ王のとき、あつく仏教を保護したため、仏教芸術が発達した(ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた)。プルシャプラを中心とするガンダーラで興ったため、ガンダーラ美術と呼ばれる。 この隆盛を極めたガンダーラ美術の成果の中でも最も重要なものは仏像の登場である。従来の仏教美術において仏陀の姿を表現することは意識的に回避されてきた。仏教説話を表現する際、仏陀は法輪や仏塔、仏足跡などで象徴的に表されるだけであったが、クシャーナ朝支配下のガンダーラとマトゥラーにおいてついに、仏陀を人間の姿で表す仏像が誕生したのである。マトゥラーではガンダーラの仏像とはやや赴きを異にする仏像が多数制作されている。 ガンダーラやマトゥラーなど、当時クシャーナ朝が支配した領域で広く仏像が制作され始めたことは、仏像の誕生にクシャーナ人自体も深く関わっていたことを示唆する。なお、ガンダーラとマトゥラーのどちらで先に仏像の制作が始まったのかはわかっていない。

    言語

    クシャーナ人の使用した言語は、中期イラン語で東イラン語に属すと考えられるバクトリア語である。アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された。既存のギリシア文字24個に加え、アイスランド語の「Þ」に形状の似た[š]の音価を持つ文字を加えた25字が用いられた。現在残されている最古の資料はクジュラ・カドフィセスの子と目されるヴィマ・タクト王の銘になる碑文である。つい最近までバクトリア語の研究は貨幣研究と1957年にスルフ・コタルで出土したカニシカ王碑文など若干の碑文以外に資料が無く、ほとんど謎の言語であったが、近年アフガニスタンで碑刻資料と皮革書簡文書が大量に発見されたことによって飛躍的に解明が進んだ。 特に、ラバータク碑文は1200字余20数行に渡る現存ではもっとも長いバクトリア語碑文で、クジュラ・カドフィセス、ヴィマ・タクト、ヴィマ・カドフィセス、カニシカに至る4代の王名が列挙され、カニシカの命令が、 と、クシャーン朝の制度やこの時代のインド史を知る上で極めて重要な内容が書かれている。また、碑文の書式もアケメネス朝の古代ペルシア語による王碑文やサー...

    クシャーナ朝の領土は、同時代に中央インドで繁栄を迎えてきたサータヴァーハナ朝などと同じく交易によって繁栄を迎えていた。かつてクシャーナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣経済は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドでは銀が不足し、インド・パルティア人やサカ人の諸王朝が発行する銀貨は極度に品質の悪いものとなっていた。 しかし、クシャーナ朝が北西インドを支配した時代、すなわちヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともに向上した。ローマやインドの商人によってローマやインドへ向けて絹・香料・宝石・染料などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として金がクシャーナ朝にもたらされた。[注釈 6] クシャーナ朝にとってローマとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが発行した金貨の単位からもわかる。クシャーナ朝は金貨の単位をローマの金貨単位にリンクさせており、その金貨は正確にローマの2アウレウス分の重量を持っていた。さらにローマのデナリウスはディーナーラとして、その通貨単位がクシャーナ朝に取り入れられた。 ※参考:オクタヴィアヌス時代のローマの通貨交換レート 1. 1アウレウス(金貨) = 25デナリウス(銀貨) 2. 1デナリウス(銀貨) = 4セステルティウス(黄銅貨) 3. 1セステルティウス(黄銅貨) = 4アス(青銅貨)

    王朝交代説

    クシャーナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる断片的な記録に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャーナ朝の王統復元について長く支持されてきた説がクジュラ・カドフィセスとヴィマカドフィセスの属する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする説、すなわちカニシカ王による王朝交代説である。 これはカニシカ以後、「カドフィセス」から「イシカ」系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。 これとあわせて、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティが「カニカ」(Kanika)王とグザン(Guzan, おそらくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったというものがあること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが小月氏の出身であるとする説もある。 ところが近年...

    大月氏とクシャーナ朝

    貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという『後漢書』の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。 中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。『後漢書』には以下のようにある。 また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的よく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。 しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一のものと見なしていいかどうかにはさまざまな立場がある。ソグディアナやホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。

    クジュラ・カドフィセス(カドフィセス1世 - 80年頃、『後漢書』によれば80歳以上まで生きた)
    ヴィマ・タクト(1世紀後半)
    ヴィマ・カドフィセス(カドフィセス2世、2世紀前半)
    カニシカ1世(2世紀半ば)

    出典

    1. ^ 小谷 1999, pp.101-111.

    小谷仲男『大月氏 中央アジアに謎の民族を尋ねて』東方書店〈東方選書 34〉、1999年12月。ISBN 978-4-497-21005-0。
    加藤九祚『アイハヌム 加藤九祚一人雑誌 2002』東海大学出版会、2002年9月。ISBN 978-4-486-03162-8。
    加藤九祚『アイハヌム 加藤九祚一人雑誌 2003』東海大学出版会、2003年11月。ISBN 978-4-486-03167-3。
    中村元『中村元選集 決定版 第7巻 インド史III』春秋社、1998年4月。ISBN 978-4-393-31207-0。

    古代アフガニスタンのバクトリア語文書 - ウェイバックマシン(2005年9月28日アーカイブ分) - 古代オリエント博物館で行われたバクトリア語に関する講演の記録。ラバータク出土の新史料にも触れられている。東京大学文学部言語学研究室サイト内

  9. 本間至恩 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 本間至恩
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    • 外部リンク

    小学校5年生の時に新潟市立南中野山小学校から村上市立神納東小学校に転校。朝日サッカー少年団を経て、アルビレックス新潟U-15へ加入。2015年、U-15日本代表に選出されてタイ遠征などに参加した。新潟U-18へ昇格し、高校2年時の2017年4月にはトップチームに2種登録された。同年5月31日のルヴァンカップ・グループステージ第7節ヴィッセル神戸戦に途中出場し、クラブ史上最年少で公式戦に初出場した。 2018年も継続して2種登録選手としてトップチームに在籍し、同年7月30日にトップチーム昇格内定が発表された。9月15日、第33節のツエーゲン金沢戦でリーグ戦初出場を果たすと決勝点を決めて勝利に貢献した。 2021年1月、オフにJ1からオファーも受けていたが、契約更新をして残留。

    U-15日本代表
    U-18日本代表
    本間至恩 - J. League Data Siteによる選手データ (日本語)
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  10. Category:実際の犯罪に基づいた映画作品 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › Category:実際の犯罪に基づい

    実際に起きた犯罪に基づいた映画作品のカテゴリ。 関連カテゴリ Category:実際のテロに基づいた映画作品 下位カテゴリ このカテゴリには下位カテゴリ 3 件が含まれており、そのうち以下の 3 件を表示しています。