雅虎香港 搜尋

  1. 朝鮮通信使 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使
    • 概要
    • 室町時代の朝鮮通信使
    • 江戸時代の朝鮮通信使
    • 通信使による日朝交流
    • 世界の記憶登録
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から秀吉に向けても派遣された。しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって日朝間が国交断絶となったために中断されて、江戸時代に再開された。 広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者による学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。 江戸幕府の外交政策において、朝鮮は琉球王国と並んで正式な国交のある通信国とされていた。その他の中国の明や清、ポルトガル(南蛮)、オランダ・イギリス(紅毛)といった国々は貿商国と定義されており、貿易は行いつつも幕末まで正式の外交関係はなかった。このため朝鮮通信使は江戸幕府の威信を示す機会であるとともに、文化交流のきっかけにもなった。

    室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧対策を日本に要請することが当初の目的だった。倭寇による朝鮮半島での活動は13世紀には記録があり、15世紀以降は明が海禁政策によって私的な貿易を禁じた影響もあって大規模化した。海賊行為は日本国内でも問題になっており、1410年(応永17年・太宗10年)には朝鮮の使者が瀬戸内海で海賊に持ち物を奪われる事件も起きている。日本では、14世紀以降に朝鮮との貿易に進出する者が増えて、朝鮮で官職を得る受職倭人、朝鮮各地の港で暮らす恒居倭人、有力者の使いとして訪れる使送倭人と呼ばれる者もいた。朝鮮では15世紀から日本人を応接する施設として倭館を建設する一方、倭寇対策として1419年(応永26年・世宗元年)には対馬を攻撃する応永の外寇も起きた。のちに対馬の対馬宗氏は、朝鮮の倭寇対策に協力して、通信使の交渉役となった。 通信使の目的には日本の国情視察も含まれており、この時代のもっとも著名な記録は、1443年(正長元年・世宗25年)の使節で書状官をつとめた申叔舟が編纂した『海東諸国紀』である。この書は朝鮮の日本や琉球に対する外交の基礎情報となった。申叔舟は6代の君主に仕えて要職につき、世祖の時代に日本や琉球との外交規定の基本も作った。1475年(文明7年・成宗6年)に死去する前には、成宗に対して日本との善隣関係を維持するよう進言した。また同時代の日本では、僧の瑞渓周鳳が日本初のまとまった外交文書として『善隣国宝記』を著している。

    国交の再開

    両国の事情 江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。室町時代末期には日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。 一方朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行った行為や李朝の対応への批判が高まると同時に、日本へ大量に連れ去られた被虜人と呼ばれる捕虜の返還を求める気風が強くなっていった。また朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を結びたいと考えていた。また、北方からの脅威も日本との国交再開の理由となった。ヌルハチのもとで統一された女真族が南下してきており、文禄・慶長の役では加藤清正軍が女真族と通じる状況もあったため、女真族と日本が協力する危険も朝鮮では検討されていた。そこで日本とは国交をして、南方の脅威を減らすという判断がなされた。 再開交渉 再開にあた...

    江戸時代の通信使の編成、行程

    室町時代の通信使編成は正使・副使・書状官の3使に輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊などが記されており、江戸時代に入ると旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫なども記録されて様式が完成されていった。通信使の正使には礼曹参議級の者が選ばれ、470人から500人の一行となった。これに対馬藩からの案内や警護1500人ほどが加わった。名称については、日本では年号によって慶長信使という具合に呼び、朝鮮では干支によって丁未通信使という具合に呼んだ。 新しい将軍が襲職すると、対馬藩は大慶参拝使を朝鮮へ送って知らせ、次に修聘参拝使を送って通信使を要請した。通信使は釜山から海路で対馬、壱岐に寄港。馬関を経て瀬戸内海に入り、鞆の浦、牛窓、兵庫などに寄港しながら大坂まで進んだ。大阪からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀からは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取ったが、近江国では関ヶ原の戦いで勝利したのちに徳川家康が通った道の通行を認許している。この道は現在でも朝鮮人街道(野洲市から彦根市)とも呼ばれている。吉例の道で...

    終了

    朝鮮では19世紀から凶作により通信使の費用調達が困難となり、1832年(天保3年・純祖32年)のロード・アマースト号をはじめとして中国近海では外圧が高まっていた。一方の日本は、家定が将軍となる前年1852年(嘉永5年・哲宗3年)に江戸城の西の丸で火災があり、1853年(嘉永6年・哲宗4年)の頃は凶作に加えてマシュー・ペリーの浦賀来航が起きていた。日朝双方で財政難と外圧の困難がありつつも、幕府は対馬藩に通信使の招聘交渉を行わせ、1865年(嘉永5年・高宗3年)を予定として対馬での聘礼を合意する。しかし1858年(安政4年・哲宗9年)には徳川家茂が将軍となり、日米修好通商条約の調印や、対馬でロシア軍艦対馬占領事件などが相次いだため、幕府滅亡まで通信使来日の計画はのぼらなくなる。それ以降は、釜山の倭館や対馬の厳原において、使節の交流が保たれた。

    前述のように朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。 江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は1690年(元禄3年)に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。

    2017年10月、国際連合教育科学文化機関は、日本のNPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会と韓国の財団法人釜山文化財団が共同申請した、江戸時代の「朝鮮通信使に関する記録」、日韓合わせて111件333点にのぼる世界の記憶(世界記憶遺産)に登録することを決定した。

    荒野泰典・石井正敏・村井章介編『アジアのなかの日本史(1-5)』東京大学出版会、1992年。
    奥谷浩一「朝鮮通信使47年間の空白と「易地聘礼」にかんする思想史的考察 : 江戸時代の日本思想史の一断面」 『札幌学院大学人文学会紀要』第80号、青山學院女子短期大學、2006年、 pp.143-176、 NAID 110006392605。
  2. 無錫市 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/無錫市
    • 地理
    • 歴史
    • 経済
    • 交通
    • 教育
    • 古跡・観光地
    • 友好都市
    • 外部リンク

    無錫の位置は北緯31度7分から32度2分、東経119度33分から120度38分の間。無錫市域の主要な範囲は沖積平野であり、ごくわずかの低山と丘陵がある。最高地点は黄塔頂(611.5m)。これらの山は石灰岩からできており、「太湖石」とよばれる穴の多い複雑な形の奇石を産出する。この石は中国庭園で鑑賞や瞑想などのために置かれ珍重される。無錫市域の南部は太湖が広がり、市の水面面積は769平方km、面積の16.5%を占める。無錫は小さな河川が無数に流れる、典型的な江南の水郷である。太湖に産する魚などの水産物が豊富で、古来「魚米の郷」と呼ばれていた。 太湖に接した無錫市街は、典型的な中国の古い城壁都市であり、中心を隋代以来の「大運河」が貫き、京杭運河となった今でも多くの船が行き来する。 無錫はかなり暑い夏から非常に寒い冬まで気温差が大きく、年平均気温は18℃である。東シナ海に近いためモンスーンや台風の影響を受け、年平均降水量は1,000mmに達する。

    無錫は有史以来非常に長い歴史を持つ。有史以前は6〜7000年前からの居住や農耕の跡があり、長江文明に属する良渚文化の墳墓など遺跡群がある。ここが呉の発祥の地の一つとなった。呉は製鉄など金属の精錬・加工と農具・武器への利用で中原の国々を圧倒したが、無錫も元来はスズ(錫)を多く産出する「有錫」という名の鉱工業都市だったという。余りにも多く掘り過ぎて前漢までに掘り尽くしてしまい、以来「無錫」になったといわれる。しかし近年の言語学者らの研究により、無錫の市名の無という字の由来は越語の発語詞によったものであり、従来の錫の産地から「有錫」「無錫」になったという説を否定する研究もある(江南は古代中国では越国の領地であって、言語も当然越語が使われていた。今日江南地域で通用する呉語の源もこの越語である)。 紀元前202年、前漢はこの地に無錫県を置いた。隋時代に建設された大運河が無錫を通り、以来、江南の農産物や織物を集散し華北や中国各地へ送る重要な経済都市・商業都市であり続けた。また、明末には顧憲成によって東林書院が建てられ東林派の拠点となった。 清代後期には、無錫は周囲の農産物の集積を背景に、その米市場の相場の影響力は江蘇省の範囲を超えるまでになった。また紡績業や繊維産業が発達し、無錫は「布碼頭(布の港)」と呼ばれるほどだった。辛亥革命までの間に食品や繊維などの民族資本が形成され始める。 こうした経済の発展は文化の発展も伴った。多くの文人らが無錫から生まれ、無錫には寄暢園など非常に優れた庭園などが建設され今も残っている。 1912年、中華民国は無錫県を置き、大小の資本の本拠地となった無錫は「小上海」といわれるほどの商業の繁栄を見た。1937年、日中戦争により、日本軍は無錫に入城し、戦場となった市街は大きく破壊された(中国側の調査では入城の際に1万4千人が犠牲になったとされる)。1949年4月23日、国共内戦の末、中国人民解放軍が無錫を占領した。1953年無錫は江蘇省の直轄市となった。だが、大躍進政策、人民公社化と文化大革命は、無錫とその周辺に荒廃と経済の多大な破壊をもたらした。 改革開放以来、無錫の経済は再起し、目覚しく発展を遂げることとなった。1981年には全国15ヶ所の経済中心都市の一つとなり、1984年には全国10ヶ所の重点観光都市の一つともなった。1985年までに無錫は...

    無錫は江蘇省南部の経済の重要都市である。市の発表によると、市内の国内総生産は2002年に1601.7億元(市民一人当たり36,632元)、2003年に1901.2億元(市民一人当たり42,961元)、2004年の市民一人当たりの国内総生産は52,825元と急激な勢いで伸びている。これは江蘇省1位で、全国でも10位以内に入るものである。 無錫は清代末期に中国で最も早く民族資本が形成された都市のうちの一つであり、現在では外資の誘致でも中国有数の実績を持つ。無錫市は新区に市内最初の経済開発区「新区開発区」を設置したが、現在までにソニー、パナソニックグループ、シャープ、東芝、日立マクセル、村田製作所、コニカミノルタ、ニコン、アルプス電気、住友電工など日系企業や、アメリカのハードディスクドライブ最大手シーゲート社や台湾の家電メーカー東元電機などの大型工場、物流倉庫などが多数稼動している。また隣接する濱湖区にも経済技術開発区を建設し多数の投資を誘致している。 特に無錫と日本との関係は密接で、2003年段階で1,000社を超える企業がすでに進出し、投資総額でも30億ドルに迫る勢いである。これは江蘇省に対する日本からの投資の半分を占め、省都南京をはるかに越え、蘇州を上回り上海に迫るものである。湖などに接する恵まれた自然環境、比較的よい治安、上海の港湾や空港からの近さ、『無錫旅情』(後述)などで日本でも名が知られ、対日感情もさほど悪くないことが要因として挙げられよう。 その他台湾、香港、欧米諸国など多くの国からの投資もあり、2002年末までに無錫市が認可した外国からの投資は累計7,000社弱、契約ベースでの投資額は220億ドルに登り、世界各国の有名企業による1億ドルを超える大型案件も多数含まれる。 市の調査(2002年)によれば、現在でも産業の大きな割合(24%)を占めるのが繊維産業で、25%がその他工業であるという。その他伝統産業では、宜興市は大理石、石灰岩、陶土の採掘で知られ、茶器など陶器生産が盛んである。恵山区などでは、土産物の泥人形(恵山泥人)の阿福・阿喜人形などが有名である。農業は、大型工業団地建設など工業化・人口増加に伴い年々耕地が減少しているが、その分、付加価値の高い商品作物にシフトして生産額を高めようとしている。

    無錫は北京〜南京〜上海の幹線上に位置し、重要な鉄道・道路・水路が通っている。 高速道路は、上海〜南京間の滬寧高速公路(沪宁高速公路)、北京〜上海間の京滬高速公路(北京から南下し長江を無錫市域内北部の江陰市で渡り、無錫で滬寧高速公路に合流する)、上海から長江沿いを上流へ向かう沿江高速公路(北部の江陰市を通る)などが無錫市域を通る。 鉄道は、上海〜南京間の幹線鉄道、浙江省杭州から北上し無錫市域を南から宜興市、無錫、江陰市を通って長江を渡る鉄道が無錫で交差する他、京滬高速鉄道に無錫東駅が設けられている。京滬線の無錫駅には滬寧城際線も通る。2014年には新たに無錫地下鉄が開業した。 水運は、大運河にルーツを持つ北京〜杭州間の京杭大運河、太湖と長江を結ぶ無錫〜江陰間の錫澄運河、市域西部の恵山区と蘇州市の長江の港・張家港を無錫市街の北側で結ぶ錫北運河がある。また、長江沿岸の江陰市には江陰港があり、大きな貨物船が接岸できる。 蘇南碩放国際空港は北京はじめ全国の主要都市数ヶ所と香港・マカオを結ぶ。2009年4月9日より大阪線も運航を開始した。2011年1月21日より成田線も運航を開始する。 市内の交通については無錫のバスを参照。

    天一中学
    東林中学
    江蘇錫山高等学校
    太湖と三山:湖に突き出た半島の黿頭渚(げんとうしょ)公園などで景色が楽しめる。太湖の中にある猿の島。
    天下第二泉:錫恵公園にある。唐代に『茶経』を著した茶聖・陸羽が茶を入れるのに適した水として、無錫の恵山の恵泉を第二位としたことに由来する。二胡の曲『二泉映月』でも知られる。
    日本、明石市(1981年8月29日から)
    アメリカ合衆国、チャタヌーガ(1982年10月12日から)
    日本、相模原市(1985年10月5日から)
    ニュージーランド、ハミルトン(1986年7月5日から)
    • ウーシー
    • 無錫
    • 无锡
  3. 回鶻 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/東ウイグル可汗国
    • 名称
    • 歴史
    • 外交
    • 軍事
    • 経済
    • 建築
    • 宗教
    • ウイグル碑文と遺跡
    • 九姓回鶻・十回紇
    • 歴代君主

    初めウイグルは『魏書』や『北史』などで袁紇や韋紇と記されたが、『旧唐書』や『新唐書』からは迴紇,回紇と記されるようになった。そして貞元4年(788年)もしくは、元和4年(809年)に迴紇/回紇から迴鶻/回鶻に改称してからは、専ら迴鶻/回鶻の語を用いるようになる。 もともとは複数部族の連合体であり、彼等自身が残した碑文によれば、早期には九姓鉄勒(トクズ・オグズ)と呼んでいたが、回紇(ウイグル)部の首長氏族であるヤグラカル氏がこの部族集団の指導者となったため、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)全体が回鶻(ウイグル)と呼ばれるようになった。

    起源

    回紇(ウイグル:Uyγur)の祖先はカザフステップからモンゴル高原北辺にかけて居住していた丁零(ていれい)族であり、そのうちの東部(モンゴル高原北辺)にいた遊牧集団から回紇(ウイグル:Uyγur)部が形成されていったとされる。 『旧唐書』や『新唐書』では、迴紇/回紇の祖先は匈奴であるとしている。

    部族時代

    丁零族は時代とともに“高車”(こうしゃ)→“鉄勒”(てつろく)と表記が変わり、その中でウイグルも袁紇→韋紇→迴紇→回紇などと表記が変わっていった。 高車時代 北魏の登国5年(390年)3月、道武帝は西征し、鹿渾海にて高車の袁紇(ウイグル)部を襲い、これを大破し、生口・馬牛羊20余万を獲得した。 和平5年(464年)、五部の高車は盛大に天を祭り、集まった衆は数万に及んだ。そのとき文成帝(在位:452年 - 465年)が高車の衆を召して南征に従軍するよう命じたが、高車は南征への従軍を拒み、遂に袁紇樹者を推戴して主とし、北魏に叛いた。都督の宇文福は高車を追討したが、大敗して還る。文成帝はまた詔で平北将軍・江陽王の拓跋継に都督としてこれを討たせた。拓跋継は先に人を遣わして袁紇樹者を慰労した。袁紇樹者は一旦柔然へ逃亡したが、まもなく部衆を率いて北魏に降った。 鉄勒時代 605年、鉄勒諸部は西突厥の泥撅処羅可汗(在位:603年頃 - 612年)の攻撃を受け、特に薛延陀部にいたっては叛乱の疑いがあるとして渠帥など数百人が生き埋めにさせられた。そこで韋紇(ウイグル)部は僕骨部,同羅部,抜野古部,...

    可汗国の成立

    742年、回紇(ウイグル)部は葛邏禄(カルルク)部とともに、抜悉蜜(バシュミル)部を盟主として反東突厥同盟を結び、抜悉蜜大酋の阿史那施を立てて賀臘毘伽可汗(頡跌伊施可汗、イルティリシュ・カガン)とした。三者は協調して東突厥を攻撃し、東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)を殺した。744年、回紇部と葛邏禄部は盟主である頡跌伊施可汗を殺し、代わって回紇部の頡利発(イルテベル:部族長)であった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン)となり、唐に遣使して懐仁可汗(在位:744年 - 747年)の称号を賜った。745年には最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼし、ついにモンゴル高原の覇者となった。

    中央アジアや西域諸国のソグド人と手を結び、唐の絹やその他の製品を運ぶシルクロード貿易を行って莫大な利益を得た。 また、ウイグルは西方へと徐々に影響力を拡大し、シル川、アム川の近郊まで勢力を伸ばした。高昌をその支配下に置き、結果タリム盆地はじめ西域諸国がテュルク化していくことになった。逆にウイグルには中国や中央アジアから仏教やマニ教が伝来しており、中国やソグド人の影響から、ウイグルは王庭や要地に城郭都市を持つようになった。可汗や一族も年の一定期間を城内で過ごし、また商人や官僚、職人などを住まわせ武器や水、食料などを蓄えた。このような城郭都市がバイ・バリクやオルド・バリクであり、城内に墳墓が存在する可汗一族もいる。

    最盛期の回鶻全体の人口は500万強、中核を構成した回鶻部のそれは50~60万人と推計され、勝兵は概ね人口の1/3で20万弱程度と考えられている。戦時に於いて、一般牧民は馬匹を自弁で賄い武器と糧秣を支給された、黒民と呼ばれる上位身分は武器・糧秣ともに自弁で賄う代わりに戦利品・略奪品や戦争捕虜の優先的取得権を持っていた。

    回鶻の最も重要な産業は牧畜で、オルホン河からセレンゲ河一帯の中上流域は環境に恵まれて家畜がよく繁殖し最も人口・家畜が稠密に在り幾らかは農耕も行われた、セレンゲ河中下流域やアルタイ山脈地区の森林地帯では牧畜や狩猟のほか農耕も行われたが人口・家畜の面積当たりの密度は比較的低く、南部から南東部のゴビ砂漠や荒蕪地はともに密度が希薄だったとされる。 また政書や史書には、東南部は駱駝が多くて牛は非常に少なく、東部の鄂嫩河・克魯倫河周辺は平坦な土地と水に恵まれ牛が家畜の中で最も多い、北部のオルホン河からセレンゲ河の下流域は駱駝が非常に少ない、西部のアルタイ山地区は牛・羊が多く馬が少ない、綿羊・ヤギ・馬は何処でも飼われ、馬はオルホン河中上流・トール河・克魯倫河の流域で最も繁殖している、とある。最も多い家畜は羊で、最も重視されたのが馬、また一家五人の所持する家畜の最低ラインは、牛13頭・馬14頭・駱駝3頭・羊90頭程度で、回鶻部の戸数が10万以上であることから、回鶻部だけでも少なくとも1000万頭以上の家畜を保持したと考えられている。 唐との間に毎年馬1~2万頭⇔絹10~20万匹の馬絹交易が行われたが、6世紀末における東ローマでの絹の市場価格は概ね絹1匹が金1~4kgで、唐国内の絹1匹の重さが25両・価格が銀1両、銀10両が金1両に相当した事を考えると、転売による利益は少なくとも250倍に上る。利潤の多くは途中のペルシャ商人やイスラム商人が手にしただろうが、平凡に転売するだけでも大きな利潤があったとされる。それ以外にも東西の交易を積極的に行って商業を営む者も多く、蓄積した資本を元手に唐国内で高利貸や商家などを営みそのまま帰国しない者もいた。

    唐の整備した回鶻路と呼ばれる交通網を引き継ぎ、道路や橋の敷設・整備と駅畜・井戸を備えた駅站の設置を推し進め、軍隊による商隊の護衛と通行料(奢侈品の移動に課税)徴収で利益を上げた。 オルホン川河畔にある首都から、南へ向かっては参天可汗道と呼ばれたオルドス・長安へ至る道が、西へは北庭都護府へ至る道が、北へは回鶻牙帳からバイカル湖畔を通りキルギス部へ続く2本の道が、東へは興安嶺を抜けて室韋の居住区を通り奚や契丹の住む地域へ続く道が在った。 城郭都市も存在したが、軍事施設ではなく商業・手工業・農業民のために築かれた。発見されている全ての城址は正方形で縦横共に500m前後の大きさだが、オルホン川沿いのカラバリクに在った首都バイ・バリクは周囲20kmの城壁で囲まれた25平方kmの大きな都市で、この他にも現在24の都市が発見されている。

    ウイグルはもともと歴代遊牧国家同様、天や太陽のほか狼や鳥を信仰しており、主要な24氏族のトーテムは、4氏族が隼、4氏族が鷲、12氏族が鷹(鷹4・白鷹4・青鷹4)、その他は狼・豹もしくは不明である。第3代の牟羽可汗(在位:759年 - 779年)の時に初めてマニ教を受容し、多くのソグド人官僚を採用した。しかし、反対派によって牟羽可汗が殺されると、マニ教とソグド人はことごとく弾圧され、一旦マニ教は息をひそめる。そして第7代懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代に再びマニ教が受け入れられると、多くのマニ教高僧がモンゴル高原に呼び寄せられ、名実ともにウイグル可汗国の国教となった。こうしてウイグル可汗国は世界史上唯一、マニ教を国教化した国となる。

    ウイグルは突厥同様、突厥文字で書かれた碑文を多数残している。また、ウイグル可汗国では巨大な城郭都市も建設した。 1. 葛勒可汗(在位:747年 - 759年) 1.1. 『テス碑文』 1.2. 『タリアト碑文』 1.3. 『シネ・ウス碑文』 1.4. バイ・バリク城址 1. 牟羽可汗(在位:759年 - 779年) 1.1. オルドゥ・バリク城址…現在のカラ・バルガスン遺跡にある。 1. 保義可汗(在位:808年 - 821年) 1.1. 『カラ・バルガスン碑文』…突厥語、ソグド語、漢語の3ヶ国語で書かれている。現在のカラ・バルガスン遺跡にある。

    回紇(ウイグル)部は九姓鉄勒(トクズ・オグズ、Toquz-Oγuz:九つの部族)に属していたが、それとは別に回紇部内でも複数の氏族に分かれており、トゥーラ河流域の九姓回紇とオルホン川流域の十回紇、伝承では合わせて122の部族があったと伝える。回紇の部族長(イルテベル)および回鶻の可汗(カガン)は、九姓回鶻の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏から選出された。 九姓回鶻 1. 薬羅葛(ヤグラカル:Yaγlaqar)…可汗姓 2. 胡咄葛(クトゥルガル:Quturγar) 3. 掘羅勿(キュレビル:Küräbir) 4. 貊歌息訖 5. 阿勿嘀 6. 葛薩(カザル:Qazar) 7. 斛嗢素 8. 薬勿葛(ヤグムルカル:Yaγmurqar) 9. 奚耶勿(奚邪勿、愛邪勿、アヤビル:Ayabir) これら各部落には氏族長として一人の都督が置かれていた。また、のちに回鶻が抜悉蜜(バシュミル)部と葛邏禄(カルルク)部を併合すると、同じく各都督一人を置いて11部落とした。 十回紇 1. 回紇部…ウテュケン山の北、セレンゲ河上中流域。 2. 抜野古部…現在のヘルレン川中下流域に住む。人口6万、勝兵1万余、良馬の産地で製鉄を行い小規模な農業を行う。 3. 僕固部…東を抜野古と接し、オノン川流域に住む。人口3万、勝兵1万、人々は剽悍で代々ヤグラカル氏と姻戚を結び可敦を輩出。 4. 同羅部(Toŋra:古テュルク語で豹の意)…元は僕固の西、トール川の北に住む。1万5千戸、勝兵3万、743年唐へ帰順しオルドスに移住、753年離散し一部が北へ戻って回紇部に加わり一部は河北に残る。 5. 斛薛部…高闕州(唐代)。多覧葛の北に住む、後の斛嗢素氏か。勝兵7千。 6. 思結部…同羅の西、トール川の北に住む。 7. 奚結部…鶏鹿州(唐代)。思結と合わせ凡そ兵2万。 8. 渾部…浚稽州(唐代)。トール川下流域に住み、回紇部と接する。 9. 契苾部…元は楡渓州(唐代)、トール川の南に住む。隋代に薛延陀部と連合して天山地方に割拠、のち西突厥の攻撃を受けて離散、イシク湖・青海・漠南などに散る。一部が故地へ戻り、勝兵3千。 10. 阿跌部…鶏田州(唐代)。オルホン川下流域、回紇部と接する、後の阿勿嘀氏。勝兵千7百。 11. 匐列羽部…漠南の蹛林州(唐代)に住む。 12. 倶羅勃部…外興安嶺の北部に住む。...

    回紇部

    1. 特健俟斤 2. 菩薩(627年 - 646年)…特健俟斤の子 3. 吐迷度(646年 - 648年)…菩薩の子、瀚海都督、左驍大将軍 3.1. 烏紇…吐迷度の甥、突厥の誘いに乗って吐迷度を謀殺、唐により誅殺。 4. 婆閏(648年 - 661年)…吐迷度の子、瀚海都督 5. 比粟毒(661年 - 680年)…婆閏の子(甥)、瀚海都督 6. 独解支(680年 - 695年)…比粟毒の子、瀚海都督 7. 伏帝匐(695年 - 719年)…独解支の子、瀚海都督 8. 承宗(719年 - 727年)…伏帝匐の子、瀚海都督。河西節度使の王君㚟の誣告により追放。 9. 伏帝難(727年)…承宗の子、瀚海都督。殺害される? 10. 護輸…承宗の一族、イルテベル 11. 葉護頡利吐発(骨力裴羅)…承宗の子

    回鶻可汗国

    ヤグラカル (Yaγlaqar) 政権 擬ヤグラカル(エディズ)政権

    亡命政権

    1. 烏介可汗(841年 - 846年) 2. 遏捻可汗(846年 - 848年)

  4. 高島嘉右衛門 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/高島嘉右衛門
    • 実業家
    • 易断家
    • 家族
    • 著書
    • 参考文献
    • 脚注
    • 関連項目
    • 外部リンク

    江戸三十間堀町(現・東京都中央区銀座)に第六子として生まれる。父は遠州屋嘉兵衛(本姓は薬師寺)。母は「くに」。姉が2人。弟に高島徳右衛門。父親の薬師寺嘉兵衛は、常陸国新治郡牛渡村出身で江戸に出て材木店「遠州屋」の手代となった。嘉右衛門は兄が皆夭折したため嫡子となる。幼少のころは父の教えに従い、四書五経や六諭衍義などを学ぶ。何度か読めばすべて覚えてしまうほど記憶力はかなりよかったらしい。14歳のころ父の営む材木商兼普請請負業や盛岡藩製鉄事業に従事するようになる。父・弟とともに東北で7年間働く。 嘉右衛門19歳の時、父を亡くし、棄捐令による影響や次姉の養子の放蕩により莫大な借金があることがわかり、その返済に奔走することになる。その頃父の名「遠州屋嘉兵衛」を襲名する。22歳の時に材木屋を始め、安政の大地震の時に江戸に大火が起こり、被害を受けた佐賀藩邸の普請や材木の売却により2万両の儲けを得て、負債の返済を終えるも、盛岡藩藩邸普請の際に暴風雨に見舞われ材木の流出や盛岡藩の支払い拒否により、却って2万両の負債を抱えることになった。

    高島易断

    嘉右衛門は実業家としても有名だが、易断による占いでも特に有名で、今でも「易聖」と呼ばれている。 安政の大地震の数日前、嘉右衛門の周りで奇異が起き、弟より理由なく釜が鳴ったのを聞いて、幼少時に学んだ易経に従って卦を立てたところ「火」に関する卦を得たため大火が起こることを予知して大量の材木を買収、数日後に大地震が発生。その後は上記にある通りである。 1860年に貨幣密売の罪で入獄したとき(1873年にも入牢している)、牢内の古畳の間から易経が出てきたため、易経を暗誦できるまで読みふけり、紙縒りを作って筮竹として占った。この出来事がきっかけとなり、普段の生活の中でも卦を立てていた。1876年(明治9年)の隠棲後は易の研究をおこない、易占に関する講義や著述を行う。易断の集大成ともいえる著作『高島易断』は漢訳され、袁世凱、李鴻章など清の知識人たちにも贈られた。また彼は、易を一種の宗教ととらえていたから、人を使ってこれを英訳させたうえアメリカ・シカゴで開催された「世界宗教大会」に提出させた。1885年には「神易堂」を建設し、孔子祭を行なった。 出獄後のほとんどの事業で卦を立て、それに従って成...

    「占い」は「売らない」

    高島嘉右衛門の占いの的中率は抜群であったため「高島」「高島易断」を名乗りその名声を利用したものが続出し、現代でもそれを名乗る団体は色々出ているが、嘉右衛門の縁者ないしは門下生はおらず、いずれも嘉右衛門とは関係ない。また、「高島暦」等と称する暦も嘉右衛門の著作にない。高島長政も「高島易断」を名乗って高島家縁者や門下生を装うのは迷惑至極であると語っている。また「呑象」の号も嘉右衛門門人の小玉卯太郎[注 4]に黙認している[要出典]だけであった。 占いそのものを商売とすることを戒めていたとされ、皇典講究所で講演した『神道実用論』の中にそれを表していると言われている一文がある。 1. 「其名巳(すで)に『うらなひ』(不売)と云ふが故に、決して金銀等の礼謝を受けず、実に神易を以て神明に通信するを本分の職務とするときは、始めて神官の名称にも副(かな)ひ、人の信用浅からざるべし。」

    妻の「くら」、そして子供「長政」(1876年生)、その他、側女のキンとの間[要出典]に5人の子供がいた。1868年に親類藥師寺久兵衞の子(1849年生)を養子にし、これが後に「高島嘉兵衞」として家督を相続したが1908年に破産。また嘉右衛門は弟「高島徳右衛門」の子「長正」を養ったとの資料もある。嘉右衛門は政府高官とも親交があり特に伊藤博文とは仲が深く、嘉右衛門の長女たま子は伊藤の養子博邦と結婚している。 嘉右衛門の弟 高島徳右衛門も父・兄とともに事業を営み、屋号は「高嶋屋」(百貨店の高島屋とは関係ない)。彼も易占好きで、『高島周易正文』を「翻刻 高島徳右衛門」として発行している(著者名不記載)。徳右衛門の子「周造」は1908年に高島徳右衛門を襲名し、東京府会議員、東京市会議員を務めた。

    高島易断 (1886年(明治19年)): 巻1 巻2 巻3 巻4 巻5 巻6 巻7 巻8 巻9 巻10
    神人交話 (1910年(明治43年)) 1912年改版
    紀藤元之介『乾坤一代男』 高島嘉右衛門伝刊行会、1956年
    高木彬光『「横浜」をつくった男 - 易聖・高島嘉右衛門の生涯』 光文社 〈光文社文庫〉、2009年 ISBN 4334746497(1982年刊角川書店『大予言者の秘密』の改題)
    持田鋼一郎『高島易断を創った男』 新潮社〈新潮新書〉、2003年 ISBN 4106100304

    注釈

    1. ^ 呑象の号は、勝海舟から号を持ってはどうかと勧められて「どうしよう」→「どんしよう」という語呂合わせで付けられたという伝説がある[要出典]。これは呑象の号の使用を黙認された小玉卯太郎が語った話とのことで、かなり信憑性が高い[要出典]。 2. ^ 安重根の名前の「根」は旁が「艮」である。また艮為山は艮が重なる形で重艮、つまり重根を指していたと解釈される。 3. ^ 親交のあった人相家の桜井大路が、病床の嘉右衛門を見舞ったときに嘉右衛門の死期が話題となった。意を決して余命3ヶ月10月中旬までの寿命と答えた桜井に対して、手文庫に用意した嘉右衛門自身の位牌を見せたという。その位牌には「大正三年十月十七日没 享年八十三歳」と自書してあったと伝説が残っている[要出典]。 4. ^ 偽高島易者がいたように小玉呑象にも偽者がいた。完全に同じ名前だとまずいので例えば児玉呑象といったよく似た名前を使っていたようである。

    高島駅 (北海道) - 北海道移住後に現在の池田町で経営した農場の敷地に設置されたことによる命名。2006年廃駅。
    本山白雲 - 戦前建てられていた高島嘉右衛門の銅像の作者。
  5. 第二次世界大戦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/第二次世界大戦

    第二次世界大戦 左上:万家嶺の戦い 右上:第一次エル・アラメイン会戦 左中央:スターリングラード攻防戦 右中央:東部戦線におけるシュトゥーカ 急降下爆撃機 左下: ドイツの降伏文書 (英語版) に署名するドイツ元帥 ヴィルヘルム・カイテル 右下: リンガエ ...

  6. 易経 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/
    • 概要
    • 書名
    • 『易経』の構成
    • 易の成立と展開
    • 占法
    • 易の注釈史
    • 数学との関連性
    • 参考文献

    儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『易』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』は卦の卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。 三易の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。今日行われる易占法の原典であるが、古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。 古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。 『史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。

    この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは宋以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。 なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。 有名なものに「易」という字が蜥蜴に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。 また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽と太陰(月)で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽や月、星の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。 伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。 また、『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。 しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。

    現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「伝」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。 (1)「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成八卦の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。 具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。 陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽()を表している。(陰()は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。 (2)「伝」(「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。 1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』写本に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆...

    占筮の定義

    『太玄経』に基づくものを言う場合もごく稀にあるが、一般に「占筮」といえば『易経』に基づき、筮竹(始原には「蓍」(キク科多年草であるノコギリソウのこと、ただし、和名の「メドギ」はメドハギという豆科の植物)の茎を乾燥させたもの)を用いて占をなすことを言う。この占においては、50本の筮竹を操作して卦や爻を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。

    易占の成立

    易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。まず伏羲が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に周の文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており、「韋編三絶」の故事として名高い。このような伝説は儒家が『易』を聖人の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察...

    八卦

    筮竹を操作した結果、得られる記号である卦は6本の「爻」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「八卦」と呼ばれる。 『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については陰陽思想により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように戦国時代以降、儒家は陰陽思想や黄老思想を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。 なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論(太極-両儀-四象-八卦)による「乾・兌...

    『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに唐の孔穎達『周易正義』や南宋の朱熹『周易本義』筮儀によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。 易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう。

    『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とは卦の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。 漢代には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする天人相関説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に孟喜・京房らは戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、十二消息卦など天文律暦と易の象数とを結合させた卦気説と呼ばれる理論体系を構築した。前漢末の劉歆はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作っており、また劉歆から始まる古文学で『易』は五経のトップとされた。 一方、魏の王弼は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、老荘思想に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は南朝において学官に立てられ、唐代には『五経正義』の一つとして『周易正義』が作られた。 こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。 宋代になると、従来の伝ならびに漢唐訓詁学の諸注を否定する新しい経学が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される程頤の『程氏易伝』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『皇極経世書』や太極や陰陽五行による周敦頤の『通書』、張載の『正蒙』などがある。ここで太極図や先天図、河図洛書といった図像をが用いられ、図書先天の学という易図学が興った。南宋になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、朱震の『漢上易伝』、朱熹の『周易本義』がある。 周敦頤から二程子を経て後の朱子学に連なる儒教の形而上学的基礎は、『易経』に求められる。

    易卦は二進法で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。 1. 0 000 2. 1 001 3. 2 010 4. 3 011 5. 4 100 6. 5 101 7. 6 110 8. 7 111 本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。)

    現代

    1. 『新釈漢文大系 易経(上)』(今井宇三郎訳注・解説/明治書院) ISBN 978-4-625-57023-0 2. 『新釈漢文大系 易経(中)』(今井宇三郎/明治書院) ISBN 978-4-625-57024-7 3. 『新釈漢文大系 易経(下)』(今井宇三郎・堀池信夫・間嶋潤一/明治書院) ISBN 978-4-625-67314-6 3.1. 『新書漢文大系 易経』(今井宇三郎/辛賢編、明治書院) - 新釈漢文大系の編著版。ISBN 978-4-625-66431-1 4. 『易経(上)』(高田眞治・後藤基巳訳注/岩波文庫) ISBN 978-4003320112 5. 『易経(下)』(高田眞治・後藤基巳訳注/岩波文庫) ISBN 978-4003320129 6. 『易―中国古典選10』(本田済訳著/朝日選書) ISBN 978-4022590107 7. 『易経講座―程氏易伝を読む』(上・下、本田済/斯文会) ISBN 978-4896191806 / ISBN 978-4896191813 8. 『易経 中国の思想Ⅶ』(丸山松幸訳/徳間書店) ISBN 978-...

    近代

    1. 『易と人生哲学』(著:安岡正篤/致知出版社) 2. 『易学の研究』(著:上野清) 3. 『易学概観』(著:兼坂晋) 4. 『易と中庸の研究』(著:武内義雄) 5. 『易の話』(著:金谷治/講談社現代新書、改訂版・講談社学術文庫) ISBN 978-4061596160 6. 『上代中国陰陽五行思想の研究』(著:小林信明) 7. 『宋代易学の研究』(著:今井宇三郎) 8. 『易経と老子の比較研究』(著:山縣初男) 9. 『周公と其の時代』(著:林泰輔) 10. 『支那古代史論』『支那天文学の組織と起原』(著:飯島忠夫) 11. 『東洋天文学研究』(著:新城新蔵) 12. 『殷虚卜辞研究』(著島那男) 13. 『殷周革命』(著:佐野学) 14. 『古代殷帝国』(著:貝塚茂樹) 15. 『支那上代思想史研究』(著:出石誠彦) 16. 『易の研究』(著:津田左右吉) 17. 『周漢思想研究』(著:重澤俊郎) 18. 『支那封建社会史』(著:陶希聖) 19. 『易学大講座(全8巻)』(講:加藤大岳) 但し易学者による易経講義録 20. 『中国古典文学大系12 史記(下)』(著:野口定...

    古代

    1. 『周易正義』(著:孔穎達) 2. 『周易虞氏義』(著:張恵言) 3. 『易傳』(著:程伊川) 4. 『周易集註』(著:来知徳) 5. 『周易経翼通解』(著:伊藤東涯) 6. 『周易欄外書』(著:佐藤一斎) 7. 『玄語』『贅語』『敢語』(著:三浦梅園) 8. 『周易本義拙解』(著:平住専安) 9. 『易学啓蒙索驥編』(著:平住専安)

  7. 東海菊花賞 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/東海菊花賞

    東海菊花賞(とうかいきっかしょう)は、愛知県競馬組合が施行する地方競馬の重賞 競走(SPI)である。 正式名称は「愛知県知事杯 東海菊花賞」。 副賞は愛知県知事賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、愛知県競馬組合管理者賞、開催執務委員長賞(2020年) [2]

  8. 中国の陶磁器 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/黒陶
    • 基本用語
    • 中国陶磁史の概観
    • 新石器時代の土器
    • 殷周時代の陶磁
    • 春秋・戦国時代の陶磁
    • 秦漢の陶磁
    • 三国〜南北朝時代の陶磁
    • 隋唐の陶磁
    • 宋の陶磁
    • 元の陶磁

    土器・陶器・磁器

    中国では、やきものは陶器と磁器(現代中国語では「瓷器」)とに二大別され、「土器」という分類呼称を用いないのが一般的である。中国では無釉(釉薬、うわぐすりを掛けない)のやきものは焼成温度の高低にかかわらず「陶器」と呼ばれ、釉の掛かったものでも、低火度焼成のもの(漢時代の緑釉陶など)は「陶器」に分類される。新石器時代の、日本語で「彩文土器」と呼ばれるやきものは、中国語では「彩陶」と呼ばれ、陶器に分類されている。日本語の「磁器」とは、胎土にケイ酸を多く含有し、施釉して高温で焼成し、ガラス化が進んだやきもののことで、陶器と異なって吸水性がなく、叩くと金属製の音を発する。ただし、「磁器」と「陶器」の境界には曖昧な部分があり、「磁器」の定義は中国、日本、欧米で若干ずつ異なっている。中国では、胎土のガラス化の程度にかかわらず、高火度焼成された施釉のやきものを一般に「瓷器」と称している。英語のポースレン(porcelain)は白いやきもののことであり、中国・朝鮮・日本では磁器とみなされている青磁は、英語ではストーンウェア(stoneware)とみなされている。以下、本項ではやきものの種別に関する...

    釉と焼成法

    煎茶器や古代の彩陶など、例外も一部にあるが、中国のやきものの多くは、表面に釉(釉薬、うわぐすり)というケイ酸塩ガラスの被膜がほどこされている。中国陶磁の基礎釉には、植物灰を原料とする高火度焼成釉(摂氏約1,200度以上で焼成)の灰釉(かいゆう)と、溶媒として鉛を含む低火度焼成釉(約800度前後で焼成)の鉛釉(えんゆう)がある。これらは、原料に含まれる金属成分の違いや焼成方法の違いにより、さまざまな色合いに変化する。陶磁器の焼成法には酸素の供給度合によって、酸化炎焼成と還元炎焼成があり、後者は窯内に十分に酸素を供給せずに焼成するものである。酸欠状態で焼成することによって、胎土や釉中の酸素が奪われ、たとえば酸化第二鉄が酸化第一鉄に変化(還元)する。青磁とは、釉の成分の灰に含まれるわずかな鉄分が酸化第二鉄から酸化第一鉄に変化することによって発色するもので、これを酸化気味に焼成すると黄色系に発色する。釉中に鉄分を多く含むと黒釉となり、呈色剤として銅を用いると紅釉、コバルトを用いると瑠璃釉となる。白磁とは、白色の釉をかけたものではなく、白い素地に鉄分含有の少ない透明釉を掛けて焼成したもので...

    青花と五彩

    青花(せいか)とは「青い紋様」の意で、白地に青い紋様を表した磁器である。同様のものを日本語では「染付」という。青花は釉下彩、すなわち素地に直接絵付けしてその上から透明釉を掛けたものである。酸化コバルト顔料で図柄を描いた上に透明釉を掛け、高火度焼成すると、顔料は青く発色する。同様の釉下彩には、鉄絵具を用いた鉄絵や、銅呈色の釉裏紅(ゆうりこう)がある。五彩とは、前述の三彩とは別個の技法で、多色(必ずしも5色とは限らない)の絵具を用いて白磁の釉上に図柄を描いた磁器である。素地に透明釉を掛けて高火度焼成した後、釉上に上絵具で図柄を描き、錦窯(きんがま)という小型の窯で再び低火度焼成する。1つの器に五彩と青花を併用する場合もある。 1. (三彩の例)唐三彩梅花文壺 2. (白磁の例)白磁鳳首瓶 五代 3. (青磁の例)青磁鉄斑文瓶(飛青磁花生) 元 大阪市立東洋陶磁美術館 4. (青花の例)青花唐草文盤 明 ホノルル美術館 5. (五彩の例)五彩竜仙人文尊形瓶 明

    『中国陶瓷史』(中国珪酸塩学会編、1982)の序文は、中国陶磁の精細な製作技術と悠久の歴史伝統は世界でも類まれなもので、中国古代文化の主要な一部を構成し、人類物質文化史上の重要な研究対象であると述べている。意匠や器形に西アジアなどの外国の影響を受けつつも、中国陶磁は常に独自の歩みを続けてきた。中国の長い歴史の中ではたびたび王朝が交替したが、漢民族以外の民族による征服王朝の時代においても、中国陶磁の伝統は守られ、一貫した陶磁史を形成している。 中国陶磁の歴史は新石器時代に始まった。中国における最初期の土器が、いつ、どこで作り始められたかは明確ではないが、出土品の放射性炭素年代測定結果によれば、1万年前頃には原始的な土器が焼造されている(後述のように、最初期の土器は2万年前にさかのぼるとの報告もある)。中国陶磁の特色の一つは、早くも新石器文化期に窯の使用を開始していることである。野焼きによる土器焼成から一歩進んで、窯を使用することによって、高火度焼成が可能となり、より硬質のやきものが生産されるようになった。また、胎土の選択、焼成温度や窯内に送る酸素量の調節などの工夫によって、灰陶、黒陶、白陶などの変化に富んだやきものが作られるようになった。さらに、ロクロの使用によって精緻な形態の、器壁が薄く均一なやきものを作り上げることができるようになった。今一つの特色は施釉陶の開発である。世界の陶磁史のなかで、外国からの技術導入ではなく、自発的に施釉陶を開発したのは西アジア・エジプト地域と中国とであった。中国ではすでに殷中期、紀元前1500年頃には灰釉を人為的に掛けた施釉陶が生産されている。この時期の施釉陶を「磁器」とみなすかどうかについては意見が分かれるが、それから千数百年を経た後漢時代(2世紀)には「古越磁」と呼ばれる本格的な青磁器が焼成されている。唐時代の陶磁工芸を代表するものとして唐三彩があるが、これは磁器ではなく、釉に鉛を用い、低火度で焼成した鉛釉陶器である。唐三彩は墳墓の副葬品や建築材料として作られたものであり、日常生活用品ではなかった。 宋時代には官窯が設置され、定窯の白磁、汝窯(じょよう)の青磁などに代表される、器形、釉調ともに最高度の技術を駆使した作品が生み出された。同時に、華北・華南の各地に磁州窯、耀州窯、龍泉窯、建窯、吉州窯などの個性的な窯が栄えたが、中で...

    土器の種類

    新石器時代に焼造された土器には、大別して紅陶、灰陶、黒陶、白陶、彩文土器(彩陶)がある。前述のとおり、中国の研究者は「土器」という分類概念を用いず、新石器時代のやきものもすべて「陶」と呼ばれる。器表が赤褐色を呈するものが紅陶、器表が灰色、黒、白を呈するものがそれぞれ灰陶、黒陶、白陶であり、表面に筆で文様や図柄を描いたものが彩陶(日本でいう彩文土器)である。白陶はカオリン(ケイ酸アルミニウム)質の胎土を精製し、高火度で焼き締めたもの。灰陶・黒陶は高火度の還元炎焼成で器面に炭素が吸着したものである。白陶・灰陶・黒陶は、いずれも胎土の精製と、窯を用いた高火度・長時間焼成という条件がなければ作れない、高度な技術段階に達した土器である。なお、出土品の中には、以上のいずれにも分類しがたい粗製の土器もあり、それらは粗陶と称される。

    新石器時代土器の概要

    中国における新石器時代の土器の存在が確認されたのは、20世紀になってからである。1921年、スウェーデンの地質学者J.G.アンダーソンは、河南省澠池県仰韶村(べんちけん ぎょうしょうそん、現・三門峡市)で彩文土器を発見した。このことから、新石器時代の彩文土器をかつては「仰韶土器」「アンダーソン土器」と呼んだ。中国の新石器時代は、彩文土器を代表的遺物とする「仰韶文化」と、これに続き、黒陶を代表的遺物とする「龍山文化」に分けられると考えられていた。しかし、その後、特に中華人民共和国成立後の中国各地における発掘調査の進展や研究の進歩により、「仰韶土器」という呼称は実情に合わないものとなっている。彩文土器は中国西部の甘粛省方面からも出土していることから、アンダーソンら欧米の研究者は、中国の彩文土器は西アジアに起源があり、西アジアから甘粛方面を経て黄河中・上流域へ伝播したものと考えた。これに対し、中国の研究者は、中国の土器文化は中国で固有に発生したものであると主張した。放射性炭素による遺物の年代測定の結果などから、中国の土器は中国で独自に発生・進化したものであるとする見解が、今日では一般に...

    最初期の土器

    中国の先史時代の土器については未解明の部分が多く、今後の発掘調査の結果によって歴史が大きく書き換えられる可能性もある。2012年6月29日付の米国科学誌『サイエンス』に北京大学らの研究チームが発表したところによれば、江西省上饒市万年県仙人洞遺跡から出土した土器片の一部は、放射性炭素年代測定により、約2万年前のものと判明したという。仙人洞のほか、初期の土器を出土した遺跡として、華南では広西壮族自治区桂林市甑皮岩遺跡、華北では河北省保定市徐水区南荘頭遺跡などが知られる。これらの遺跡出土の土器は、放射線炭素年代測定や熱ルミネセンス法により、いずれも約1万年前の製作とされている。仙人洞遺跡出土の土器片は、復元すると丸底の壺形土器で、器表には縄文が施され、胎土には石英粒などを含んだ粗製の土器である。この時期の土器をどのようにして焼いたかは正確には不明であるが、雲南省やタイ王国などに残る民俗事例から類推して、「覆い焼き」という方法が行われたと推定されている。「覆い焼き」とは、成形・乾燥させた土器の周囲を稲わらで覆い、その上を粘土で密封してから点火するものである。 完器に復元された土器が出土し...

    殷(商、17世紀BC - 11世紀BC)、西周(11世紀BC - 771BC)の陶磁について概説する。陶磁史のうえで殷(商)代の特筆すべき出来事としては、人為的に施釉した陶器である灰釉陶器の出現がある。窯の中のやきものに燃料の薪の灰が降り掛かると、高火度焼成の場合は胎土中のケイ酸を溶かす作用をし、器表にガラス状の膜を生じる。これが「自然釉」と呼ばれるものである。朝鮮半島や日本のやきものは、窯内で灰が降り掛かったことによる自然釉の段階を経て施釉陶に移行しているのに対し、中国では自然釉の段階をほとんど経ずに、人為的に施釉し高火度(約1,200度以上)で長時間焼成した陶器が出現している。 前述のとおり、中国・日本・欧米では、それぞれ「磁器」の概念が異なり、中国では釉を掛けて高火度焼成されたやきものを総じて磁器(瓷器)と言っている。殷代の施釉陶についても、中国では「原始磁器」(中国語表記は「原始瓷器」)と呼称しているが、同じものを日本語では一般に「灰釉陶器」と称している。 灰釉陶器の成立は殷代中期、紀元前1500年頃のことであった。伴出する青銅器の様式から、殷代中期までさかのぼることが確実な灰釉陶器としては、河南省鄭州市銘功路の殷墓から出土した灰釉大口尊がある(「尊」はもともと青銅器の器種で、神に捧げる酒を入れる広口の容器)。この尊は、黄灰色の胎土に印文(スタンプ文)を施し、灰釉を掛けたもので、釉は黄緑色を呈している。このほか、河北省の藁城台西遺跡、江西省の呉城遺跡などから殷代の灰釉陶器が出土している。灰釉陶器の生み出された経緯は明らかでないが、新石器時代後期から華南で焼かれていた印文硬陶との関連が説かれている。印文硬陶とは、器表に印文(スタンプ文)を施して高火度で焼き締めた陶器で、印文、胎土、高火度焼成などの点に灰釉陶器とのつながりが指摘されている。前述の呉城遺跡では後世の龍窯(斜面を利用した登り窯の一種)の祖形とみなされる窯が検出されており、そこからは灰釉陶器片が出土し、印文陶器と共伴していた。殷代の遺跡から出土する陶片のうち、灰釉陶器はごく一部であり、大量に生産されたものではなかった。殷代の灰釉陶器の器形は同時代の青銅器の器形とは共通性が少なく、主な器種は壺、豆(とう、高坏)、尊などである。 殷代の陶磁としては他に印文白陶が著名であるが、遺品は稀少である。これは...

    概要

    春秋時代・戦国時代(770BC - 221BC)の陶磁について略説する。春秋時代になると、江蘇省、浙江省などの華南の遺跡からは大量の灰釉陶器が出土する一方で、華北からはこの時代の灰釉陶器の出土はほとんど知られていない。華南の浙江省湖州市徳清県には春秋期の灰釉陶器を焼いた窯址が40か所ほど知られる。同県にある皇墳堆(円墳)からは27点の灰釉陶器が出土したが、青銅器は1点も出土しなかった。これらのことから、春秋期においては、華北で青銅器が製作される一方で、華南ではそれに代わるものとして灰釉陶器が製作されていたとみられる。現に、華南の灰釉陶器の中には同時代の青銅器を模したものがあり、たとえば、浙江省嘉興市海塩県の土墩墓からは13点一組の編鐘など、灰釉陶器製の楽器が45点出土している。これらの器形は青銅器そのものである。江蘇省、浙江省などの江南地域は南朝から唐代の越州窯青磁を生産した土地であり、春秋戦国期の灰釉陶器が後の青磁の源流になったとみられる。 戦国時代にも華南では引き続き灰釉陶器が焼成された。器形は青銅器写しのものと、日常生活容器の両方がある。窯址は浙江省杭州市蕭山区進化鎮と同省...

    黒陶と鉛釉陶

    戦国時代の特色ある陶器としては、中山国王墓から出土した黒陶群がある。河北省石家荘市平山県の中山王墓群から出土した一連の黒陶器は、青銅器または漆器を模した器形で、器表は漆黒を呈し、念入りに研磨され、形態、質感ともに金属器を思わせるものである。器表には磨光文と呼ばれる特殊な技法による文様が施される。磨光文は、彩色されたものではなく、成形後に器面を竹製か木製の道具でこすることによって文様を表したもので、光の当たり具合によって、黒い器の表面に黒い文様が浮かび上がる。 低火度焼成の色鮮やかな陶器である鉛釉陶器は、漢代以降盛んに作られ、唐時代には唐三彩を生むが、戦国時代にさかのぼる鉛釉陶器の例として、米国カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館所蔵の緑釉蟠螭文壺(りょくゆうばんちもんこ)がある。この壺は、器形、文様などから戦国時代製とみられるもので、洛陽金村韓君墓の出土と伝えられる。ただし、戦国期の鉛釉陶器については。この緑釉壺が現在知られるほとんど唯一の作品であり、詳しいことは不明である。

    秦(221BC - 206BC)、漢(202BC -220AD)の陶磁について概説する。短命王朝であった秦代の陶磁として特筆すべきものは始皇帝陵の兵馬俑である。西安郊外にある始皇帝の驪山陵(りざんりょう)の東方に位置する3つの兵馬俑坑からは陶製の戦車100余台、陶馬約600体、武士俑約8,000体が東向きに整然と列をなした形で出土した。これらは加彩灰陶である。武士俑は高さ180センチ前後の等身大で、現状は灰色を呈しているが、元は各像に赤、白、黒などの彩色が施されていた。着衣や冑、顔貌から沓に至るまで写実的に作られ、顔貌は一体一体異なっている。 漢代には中国陶磁史上初めて、本格的な青磁が登場したほか、灰釉陶器、加彩灰陶、黒陶、鉛釉陶器などが作られた。殷周から春秋戦国にかけて、青銅器文化が栄える一方で、陶磁器の発展はゆるやかであったが、漢代に至って、青磁の焼造という大きな技術的進歩があり、技法も形態も多様な陶磁器が作られるようになった。 灰釉陶器は、漢代にも作られているが、前述のように紀元前3世紀頃には一時期灰釉陶器の生産が途絶えていたようで、時代的に断絶がある。また、漢代の灰釉陶器は戦国時代のものに比べて技術的にはむしろ後退していることが指摘されている。漢代の灰釉陶器の典型的な作品は、壺などの上半部のみに釉が掛かり、下半分は赤黒く焼き締まった胎土が露出するもので、この種の作品はおおむね前漢時代後半から後漢時代前半の作とみられる。前漢前期に属するものとしては、湖南省長沙の馬王堆一号墓出土品があるが、これは印文硬陶の系統を引くもので、前述の胎土が赤黒く焼けたタイプとは異なる。 漢代において陶磁史上特記すべきことは、この時代に本格的な青磁の焼造が始まったことである。中国における施釉陶(中国でいう原始磁器)の焼造は殷代の紀元前1500年頃に始まったが、青磁と称するにふさわしいやきものが登場するのは後漢時代、紀元2世紀のことである。初期の青磁を焼いた窯は浙江省上虞窯、寧波窯などで見出されている。この時代の青磁器は、よく溶けた灰緑色の釉が器全面に掛かったもので、胎土、釉、焼成温度などの点で前漢までの灰釉陶器とは一線を画している。青磁とは、釉の成分の灰に少量含まれる鉄分が還元炎焼成によって青く発色したもので、青磁釉は成分の点では灰釉と根本的な違いはないが、焼成技術と窯構造の進...

    三国(222 - 265年)、西晋・東晋(265 - 420年)、五胡十六国(304 - 439年)、南北朝(420 - 589年)の陶磁について概説する。漢代に発生した青磁は、この時代にも引き続き製作された。華南の浙江省を中心とした地域の墳墓からは三国時代の呉から西晋、東晋に至る時期の青磁が出土する。これらの青磁を、古越磁、古越州と呼びならわしているが、この「古」は、後代(唐後期〜北宋)の越州窯青磁と区別した呼称である。この時代の青磁の現存するものは、ほとんどが墳墓に副葬された明器であり、日常用の器がどのようなものであったかは明確でない。器種としては、壺、盤のような一般的なもののほか、神亭壺と呼ばれる特殊な壺、獅子、虎、羊などの動物をかたどった容器、鶏舎や猪圏(豚小屋)をかたどったものなど、明器特有の器種もある。神亭壺は、壺の上に楼閣形を乗せ、人物や動物の小像で飾り立てたもので、この時期特有の器種である。以上のような明器特有の器種は呉から西晋にかけて盛んに作られるが、東晋代にはこの種の作例は減り、実用的な器種が増えていく。この時代特有の器種としては他に、鶏頭形の注口をもつ天鶏壺がある。天鶏壺は把手を有するものと有しないものがあり、東晋以降、南朝時代に至っても製作されている。なお、鶏頭形の注口は外観だけで、内部に孔が貫通していない例が多い。壺の口縁の部分を盤(皿)形とした盤口壺もこの時期に盛んに作られた。南北朝時代の南朝においても青磁は焼造されているが、呉・西晋時代に作られたような明器用の特異な器種は姿を消し、盤、壺、瓶といった実用的な器種のものがもっぱら作られるようになった。浙江省北部の徳清窯など、各地の窯の個性も次第に明確になってくるが、その詳細の解明は今後の課題となっている。華南では東晋時代を中心に黒釉磁も生産された。 一方、この時代の華北においては、6世紀初め頃までは陶磁史のうえで目立った展開は確認できず、漢の滅亡から魏、西晋を経て五胡十六国時代までは取り上げるべき遺品に乏しい。6世紀に至り、北魏では厚葬の風習に伴い、明器(副葬品)としての鉛釉陶(緑釉、褐釉)が再び登場し、加彩灰陶の人物、動物などの俑も作られた。北魏の東西分裂後の東魏では黒磁、青磁も作られた。短命に終わった東魏の後を継いだ北斉では初めて白磁が焼造されたが、西魏とその後を継いだ北周では目...

    概論

    隋(581 - 618年)、唐(618 - 907年)、五代(907 - 960年)の陶磁について概説する。隋・唐代には前代に引き続き青磁、白磁、黒釉磁および鉛釉陶が各地で製作された。中国で陶磁器が一般の人々にも使用されるようになったのが唐時代の8世紀末 - 9世紀頃からであった。また、同じ頃から陶磁器が海外貿易の商品となった。唐の青磁や白磁の器は東南アジアや西アジア各地の遺跡から出土している。このように、唐時代は、中国の陶磁器が国内外に広く販路を広げ、国際性を高めていった時代であった。唐代の陶磁器としては、国際性豊かで華麗な三彩陶器(唐三彩)が広く知られているが、低火度焼成陶器である三彩は明器(墳墓の副葬品)として地下で保存されてきたものであり、日常使用される陶器ではなかった。 南北朝の分裂に終止符を打った隋は短命に終わったため、隋代特有の陶磁の様式を見出すのは困難である。この時代の基準遺跡としては河南省安陽市にある張盛墓(595年葬)と、同じく安陽にある卜仁墓(603年葬)出土の陶磁がある。両墓からは北方系の青磁が出土しており、張盛墓からは白磁の武人俑が出土している。

    越州窯青磁

    浙江省慈渓市(旧余姚)の余姚窯やその周辺の窯で焼成された青磁を越州窯青磁という。陸羽の『茶経』という書物には、唐代の窯として、越州、鼎州、婺州(ぶしゅう)、岳州、寿州、洪州、邢州(けいしゅう)の7つが挙げられている。これは、「美味しく茶が飲めるのはどの窯の器か」という趣旨の記述の中に登場するものであるが、唐時代に実在した窯とその作風を具体的に伝える史料として貴重なものである。前述の7つの窯のうち、鼎州窯は窯址が不明だが、他の6つについては窯址が確認され調査されている。6つのうち、邢州窯は華北の白磁窯で、北朝から五代まで存続した。残りの5窯はいずれも華南地方にあり、青磁を主に焼いた窯である。越州窯は前述のとおり浙江省慈渓市に窯址があり、以下、婺州窯は浙江省東陽市、岳州窯は湖南省岳陽市湘陰県、寿州窯は安徽省淮南市(わいなんし)、洪州窯は江西省豊城市曲江鎮に窯址が確認されている。婺州、岳州、寿州、洪州の各窯は新中国成立後の調査で確認されたもので、婺州窯が北宋まで存続するが、他は唐末から五代頃には姿を消している。 越州窯の青磁は前述の『茶経』でも第一とされ、晩唐の詩人陸亀蒙は「秘色越器」...

    その他の主要窯

    唐代には「南青北白」と称されるように、華南の多くの窯で青磁が焼かれるとともに、華北では主に白磁が製作されていた。白磁は、北朝時代から続く邢州窯(河北省邢台市臨城県・内丘県)のほか、河北省保定市曲陽県の定窯、河南省鞏義市(きょうぎし)の鞏県窯(きょうけんよう)でも焼造されていた。定窯は後の北宋時代に最盛期を迎える白磁の名窯である。 唐時代の重要な窯として、他に長沙窯がある。長沙窯は湖南省長沙市望城区銅官鎮に位置し、瓦渣坪(がさへい)窯とも呼ばれる。この窯は前述の『茶経』に言及される岳州窯の後継の窯と目され、国外輸出用の陶器を大量生産した窯として知られる。この窯の典型的作品は黄釉陶で、灰白色の胎土に白化粧をし、灰釉を掛けている。釉は青磁の釉と基本的には同じものであるが、酸化炎焼成のため黄色に発色している。器形は各種あるなかで水注が多い。技法面で注目されるのは釉下彩で文様を表していることである。後代の五彩(色絵)は、透明釉を掛けて高火度焼成した器の釉上に絵付けをして再度焼成するものであるのに対し、素焼きした胎土上に絵付けし、その上から透明釉を掛ける場合を釉下彩という。釉下彩の代表的なも...

    概論

    北宋(960 - 1127年)、遼(907 - 1125年)金(1115 - 1234年)、南宋(1127 - 1279年)の陶磁について略説する。宋時代は中国陶磁の黄金時代といわれ、青磁、白磁の名品が生み出された。青磁は前代に引き続き華南に越州窯、華北に耀州窯がある。越州窯青磁の窯は浙江省北部にあったが、北宋中期頃から青磁生産の中心は浙江省南部に移り、これを龍泉窯という。汝窯(じょよう)や南宋官窯も青磁の名窯として知られる。白磁では華北の定窯、華南の景徳鎮窯が著名である。定窯では酸化炎焼成によるクリーム色の白磁が焼かれた。景徳鎮は五代に始まり、元時代以降、中国陶磁の中心的産地となる窯場であるが、宋時代には青みを帯びた白磁(青白磁と称する)が主製品である。このほか、河南省を中心とする華北一帯には、陶質の胎土に白化粧をした倣白磁を焼く一連の窯があり、これらを総称して磁州窯という。磁州窯では、掻き落とし、象嵌、鉄絵などのさまざまな手法で加飾した、民窯ならではの創意に富んだ陶器が生産された。南宋時代には福建省の建窯、江西省の吉州窯で黒釉の喫茶用の碗、いわゆる天目が製作された。これらの碗...

    汝窯と官窯

    青磁の名窯とされる汝窯の器は稀少で、現存するものは70数点とされている。現存する汝窯青磁の大部分は北京の故宮博物院と台北の故宮博物院にあり、その他、上海博物館、英国・デイヴィッド財団、大英博物館、大阪市立東洋陶磁美術館などに所蔵されている。南宋の周輝の『清波雑志』に、「汝窯は宮中の禁焼なり 内に瑪瑙末(めのうまつ)有りて油となす ただ御に供し揀(えら)び退けまさに出売を許す 近ごろ尤(もっと)も得難し」とある。大意は「汝窯は宮廷の磁器で、釉には瑪瑙の粉が含まれている。もっぱら宮廷用の磁器であり、宮廷用に選ばれなかったものだけが販売を許されたが、近年は入手が困難である」ということである。このことから、南宋時代にはすでに汝窯青磁器が稀少になっていたとみられる。北宋時代の文献で汝窯に言及しているのは、徐兢の『宣和奉使高麗図経』が唯一の例とされている。同書は、徐兢が1123年、宋の使節として高麗に滞在した時の見聞記である。ここで徐兢は高麗青磁について「汝州の新窯器に似た色だと高麗人は称している」と記録している。ただし、この「汝州の新窯器」が現在汝窯青磁と呼ばれている作品を指しているのかど...

    定窯

    青磁の汝窯と並び、宋代の白磁の名窯として知られるのが河北省の定窯である。窯址は河北省保定市曲陽県澗磁村にある。定窯は唐代に始まり、五代、北宋を経て金代まで活動したが、唐〜五代の遺品は少ない。北宋の定窯白磁は、わずかに黄色みを帯びたクリーム色の釉色が特色である。この釉色は焼成の燃料が薪から石炭に変わり、酸化炎焼成になったことで得られたものとされている。器種は瓶、壺、水注、鉢、盤などの一般的なもので、刻花や印花で文様を表すものが多い。鉢、盤などは、伏せ焼きにしたため、口縁部が無釉となっており、無釉部分に金属の覆輪を施すものがしばしばみられる。白磁の他に黒釉や柿釉の碗、これらの釉上に金箔を焼き付けた碗(「金花定碗」と称する)などがある。柿釉は黒釉と同じ鉄呈色の釉であるが、鉄分の含有率が多いことにより、釉の表面に柿色の皮膜を生じたものである。

    概論

    元(1271 - 1368年)の陶磁について概説する。モンゴル人による征服王朝である元の時代にも、中国陶磁は停滞することなく発展を続けた。かつて元時代は中国陶磁の暗黒時代と言われ、この時代の中国陶磁器には見るべき発展はなかったとされていた。元代の陶磁については同時代の記録が乏しい上に、製作年代が判明する在銘の作品もきわめて少ないため、長らくその実態が不明であった。このため、元時代の作品はその前の宋時代か、後の明時代の作とされてしまっていた。しかし、20世紀以降、おもに欧米の研究者により元代陶磁の様式研究と作品の抽出が進み、その実態が明らかになってきた。

    青花

    元代の陶磁史において特筆すべきことは、青花、すなわち白地に青の文様を表した磁器の隆盛である。青花は「青い文様」の意で、英語では「ブルー・アンド・ホワイト」、日本語では「染付」と称される。青花は釉下彩の一種であり、成形した器をいったん素焼きしてから、酸化コバルトを含む顔料で器面に絵や文様を描く。その上から透明釉を掛けて高火度で還元焼成すると、顔料は青色に発色する。元代には西アジアから輸入されたコバルト顔料が使用されたことが分析結果から判明しており、この顔料を中国では「回青」または「回回青」(「イスラム圏の青」の意)、日本語では呉須という。釉下彩の技法は、すでに唐時代の長沙窯に先例があるが、宋時代には中国陶磁の主要な技法とはなっていなかった。釉下彩磁が盛んになるのは元時代の景徳鎮窯からである。 元の国号が定められたのは1271年であるが、陶磁器の作風に関しては、しばらくは大きな変化がなく、南宋ならびに金の陶磁の延長であった。元時代特有の陶磁が現れるのは14世紀、1300年代に入ってからである。年代の押さえられる初期作品としては、延祐5年(1318年)の無名氏墓(江西省九江市)から出土...

    龍泉窯

    元時代には、景徳鎮の青花が発達した一方で、宋時代以前に栄えた白磁の定窯、青磁の耀州窯などは振るわなくなり、姿を消している。そうした中で、伝統的に青磁の産地であった浙江省では、宋代に引き続き龍泉窯の青磁は活況で、海外にも多くの製品を輸出していた。そのことを如実に示すのが、1975年に韓国全羅南道新安郡沖で発見された沈没船(新安沈船)の積荷の貿易陶磁である。この船は積荷の中に至治3年(1323年)の年号や「東福寺」の文字を記した木簡があり、その頃に中国の寧波の港を出て、日本へ向かう途中で沈没したことがわかる。積荷の陶磁は龍泉窯青磁がもっとも多く、建窯や吉州窯の天目、江南産の白磁、青白磁なども含まれていたが、青花は含まれていなかった。南宋時代の龍泉窯青磁は、白胎に失透性の青磁釉が厚く掛かった、日本で砧青磁と称される作品群に代表される。砧青磁の釉色は青系で、刻花(彫文様)や貼花(貼り付け文様)はほとんどないのに対して、元時代には釉が緑系に発色し、器表に刻花や貼花の装飾を施した壺、鉢などの青磁器が作られた。この手の作品は日本に多く舶載され、日本では天龍寺青磁と称されている。天龍寺青磁の名称...

  9. 伊奈信男賞 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/伊奈信男賞
    • 第1回から第10回
    • 第11回から第20回
    • 第21回から第30回
    • 第31回から第40回
    • 第41回から第50回
    第1回(1976年度)
    第2回(1977年度)
    第3回(1978年度)
    第4回(1979年度)
    第11回(1986年度)
    第12回(1987年度)
    第13回(1988年度)
    第14回(1989年度)
    第21回(1996年度)
    第22回(1997年度)
    第23回(1998年度)
    第24回(1999年度)
    第31回(2006年度)
    第32回(2007年度)
    第33回(2008年度)
    第34回(2009年度)
    第41回(2016年度)
    第42回(2017年度)
    第43回(2018年度)
    第44回(2019年度)
  10. シーサンパンナ・タイ族自治州 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/シーサンパンナ・タイ族...
    • 歴史
    • 地理
    • 産業
    • 交通
    • 関連項目

    先秦時代は哀牢国の版図に含まれ、南詔の時代になると茫乃(ムアン・ナイ)道を設置した。シップソーンパンナー(西双版納)の建国は、1180年にパヤー・スンカムンがムアン・チエンフン(景洪)で王を称したこと始まる。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻があり、元朝へ帰順し、さらに明朝が興ると1382年には明に服属している。16世紀にタウングー王朝が成立すると東方への攻勢を強め、周辺のタイ族による諸国家を支配下に置くことに成功し、この過程で上座部仏教やビルマ文字を吸収した。 19世紀、列強諸国が東南アジアに勢力圏を設定した際、シップソーンパンナーは中国の領土とされたが、その後も内政は従前の通り歴代王が清朝、中華民国より土司の称号を受けて名目上中国に属するという状態が継続していた。1956年、中国人民政府のもとで行われた社会改造により、従来の国家組織が解体、王国は滅亡し、タイ族の自治州が設定されることとなった。 1980年に初めて外国人観光客に開放された。

    南はラオス、ミャンマーと 966 キロメートルに及ぶ国境線を接する。上流ではザチュ(雑曲)河、地元では瀾滄江(百万の象を意味するランサーンに由来する)と呼ばれるメコン川が南流し、メコン水運でラオスやタイと繋がる。

    国境貿易

    1. ミャンマー 1.1. 勐海県打洛口岸 (アジアハイウェイ3号線) 1. タイ 1.1. 景洪市景洪港(メコン川水運) 1. ラオス 1.1. 勐臘県モーハン口岸 (アジアハイウェイ3号線、南北経済回廊)

    特産品

    1. プーアル茶 2. 竜血:漢方薬に使用するリュウケツジュからとれる樹脂。 3. 熱帯性の果物類:パラミツ、ランブータン、レンブ、パパイア、マンゴー、アボカド、パイナップル 4. アマチャヅル など

    航空

    1. シーサンパンナ・ガサ空港

    道路

    1. 高速道路 1.1. 昆磨高速道路 2. 国道 2.1. G213国道 2.2. G214国道

    港湾

    1. 景洪港

  11. 其他人也搜尋了