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概要. 『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の 斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは 4世紀 の第17代 奈勿王 以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。 6世紀 中頃に半島中南部の 加羅 諸国を滅ぼして配下に組み入れた。 唐が 660年 に百済を、 668年 に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。 その後、唐が 吐蕃 と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。 首都はほぼ金城(現在の 慶尚北道 慶州市)にあった。
- 530年
- 紀元前57年
- 676年
- 551年-585年
고구려 ・고려. 476年頃の高句麗 (高麗)と周辺諸国. 高句麗 (こうくり、コグリョ、 朝鮮語: 고구려 、 紀元前1世紀 頃 - 668年 10月22日 [1])または 高麗 (こま、こうらい、コリョ、 朝鮮語: 고려)は現在の 大韓民国 、 朝鮮民主主義人民共和国 北部から 満洲 の南部にかけての地域に存在した国家。 最盛期には 朝鮮半島 の大部分、 中国東北部 南部、 ロシア 沿海地方 方の一部を支配した。 朝鮮史 の枠組みでは同時期に朝鮮半島南部に存在した 百済 ・ 新羅 とともに朝鮮の 三国時代 を形成した一国とされる。
- 375年
- 5世紀
- 紀元前1世紀 頃
- 313年
飛鳥時代の藤原鎌足を祖とする神別氏族であり、多くの公家を生み出し、朝廷の中枢を担った。 また多くの支流を生み、武家・神職などその後裔を称する家系も多数に上る。
概要. 中国 六朝 (南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の 冊封 体制下に入って 官爵 を求めたことが記されている。 宋に続く 斉 の正史『南斉書』(537年)、 梁 の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。 また宋に先立つ 晋 の正史『晋書』(648年)にも五王の先駆とも考えられる記事がある(後述)。
高帝(こうてい)は、東アジア世界で皇帝に贈られた諡号。 正式には 高皇帝 (こうこうてい)、あるいはより長い諡号である。 太祖 の 廟号 と併せて王朝の創始者に贈られることが多かった。
概要. 鎌倉幕府 政所 別当 ・ 大江広元 の四男で御家人の 毛利季光 を祖とする一族であり、名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の 相模国 愛甲郡 毛利荘 (もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を 本貫 としたことによる。 中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。 季光は宝治元年(1247年)の 宝治合戦 に際して 三浦泰村 に与して3人の子息とともに敗死。
概要. 隠岐諸島は本州南西部の 島根半島 の北の日本海、 北緯36度 付近に位置する。 隠岐諸島は 島後水道 を境に 島前 (どうぜん)と 島後 (どうご)に分けられる。 島前 は「島前三島」と呼ばれる 知夫里島 (知夫村)、 中ノ島 (海士町)、 西ノ島 (西ノ島町)から構成される群島である。 これに対し、 島後 は1島(隠岐の島町)のみである。 島後の面積は約242 km 2 で、日本列島では 徳之島 に次いで大きく、15番目の面積を持つ [2]。 主な島は、これら4島だが、付属の小島は約180を数える。 隠岐諸島の最高峰は島後の中央やや東側に所在する 大満寺山 で、山頂の標高は608 mである。 かつては摩尼山と呼称された。