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  1. 大原俊弘 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 大原俊弘

    大原 俊弘(おおはら としひろ、1969年 10月25日 - )は、日本の実業家。 日本都市の創業者。 概要 昭和44年、埼玉県 三郷市生まれ。東海大学中退。 平成10年1月、道路区画線設置会社、(有)日本都市ラインを設立し代表取締役となる。 平成15年5月、(有)日本都 ...

  2. 在日韓国・朝鮮人の一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 在日韓国・朝鮮人の一覧
    • 芸能関連
    • スポーツ関連
    • 経済関連
    • 芸術関連
    • 学術関連
    • その他
    • 関連項目
    新井浩文 - 本名:朴 慶培(パク・キョンベ)。俳優。朝鮮籍だったが、現在は韓国籍、在日3世。青森県出身。
    安蘭けい - 本名:安田瞳子。俳優。在日韓国人3世。滋賀県出身。
    アン・サリー - 本名:安 佐里。シンガーソングライター。在日韓国人3世。名古屋出身。
    伊藤ゆみ - 女優、歌手。在日韓国人3世。鳥取県出身。

    野球選手

    1. 張本勲(はりもと いさお)本名:張 勲(チャン・フン)。元プロ野球選手。在日2世。 2. 金城晃世(きんじょう あきよ)元プロ野球選手。在日2世。金城龍彦の父。 3. 李景一(り けいいち)元プロ野球選手。 4. 上田剛史 (うえだ つよし) 本名 : 周 剛史(チュ・ガンサ) 在日韓国人4世。元プロ野球選手。 5. 天野勇剛(あまの ゆうごう)本名:金 勇剛(キム・ヨンガン) 6. 宇田東植(うだ とうしょく)本名:朱 東植(チュ・ドンシク) 7. 大原秉秀(おおはら へいしゅう)本名:姜 秉秀(カン・ビョンス) 8. 金村大裕(かねむら だいゆう)本名:金 大裕(キム・デユ)。在日韓国人3世。 9. 田中実(たなか みのる)本名:金 実(キム・シル)。在日韓国人3世 10. 安田権守(やすだ こんす)本名:安 権守(アン・グォンス)。在日韓国人3世。

    格闘技

    1. 秋山成勲(あきやま よしひろ)民族名:秋 成勲(チュ・ソンフン)。総合格闘家、元柔道選手。在日韓国人4世。 2. 大木金太郎(おおき きんたろう)民族名:金 一(キム・イル)。元プロレスラー。韓国・全羅南道出身。 3. 大野義啓(おおの よしひろ)民族名:姜 義啓(カン・イゲ)。元柔道選手。兵庫県明石市出身。在日韓国人3世。 4. 金村キンタロー(かねむら キンタロー)民族名:金 珩皓(キム・ヘンホ)、通名:金村珩皓(かねむら ゆきひろ)。プロレスラー。韓国籍。三重県津市出身。 5. 星野勘太郎(ほしの かんたろう)民族名:呂 建夫(ヨ・コンブ)、通名:星野建夫(ほしの たつお)。元プロレスラー。兵庫県神戸市出身。 6. 朴禎賢(パク・チョンヒョン)テコンドー師範。大阪生まれ、滋賀県出身。在日韓国人3世。 7. 黄秀一(ファン・スイル)元テコンドー選手。東京都出身。在日韓国人3世。 8. 徳山昌守(とくやま まさもり)民族名:洪 昌守(ホン・チャンス)。元プロボクサー。朝鮮籍だったが、現在は韓国籍、在日3世。 9. 文章圭(ムン・ジャンギュ)通名:松井章圭(まつい しょうけ...

    青木定雄(あおき さだお)本名:兪 奉植(ユ・ボンシク)。エムケイ元会長。韓国慶尚道出身。在日韓国人1世。
    重光武雄(しげみつ たけお)本名:辛 格浩(シン・キョクホ)。ロッテグループ会長、千葉ロッテマリーンズオーナー。朝鮮慶尚南道蔚山市(現蔚山広域市)出身。在日韓国人1世。
    朴一(パク・イル)商学者。在日韓国人3世。兵庫県出身
    李成市(リ・ソンシ)歴史学者。在日韓国人3世。愛知県出身
    李英和(リ・ヨンファ)北朝鮮研究者。在日韓国人3世。大阪府出身
    金富子(キム プジャ)歴史学者。在日韓国人2世。青森県出身
  3. 鄭澈 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 鄭澈
    • 略歴
    • 著書と作品
    • 関連項目
    • 外部リンク

    1536年に現在のソウルに生まれた。敦寧府判官鄭惟沈の息子で一番上の姉が仁宗の貴人、二番目の姉が桂林君(月山大君の孫で桂城君の養子)の夫人となっていたことから幼少より宮中に出入りし慶源大君(後の明宗)と親交を深めた。1545年、乙巳士禍に関連し父親が流罪になるとそれに従っている。1551年に特赦され家族は全羅道昌平に移住、ここで金允悌の門下となり星山山麓の松江において学問を学び、また林億齢による詩賦の指導を受けている。 1561年に科挙を受験し進士を第1位で合格、翌年には別時文科も第1位で合格し持平を経て咸鏡道暗行御使に任じられ、1567年には賜暇読書を与えられている。1568年に修撰、校理を経て再び持平とされたが、1575年に一旦官を辞して故郷へ戻っているが、1578年に掌楽院正に任用され、射干、職制学を経て承旨にまで進んだが、珍島郡守であった李銖による贈賄事件に関連し辞職、故郷に戻っている。 1580年、江原道観察使に登用されると、その後観察使として江原道、全羅道、咸鏡道に地方長官として派遣されたことが詩賦創作に大きな影響を与えた。最初の作品として知られる『関東別曲』は金剛山の山水を題材とし、その地方の故事や風俗までも表現した作品であり、また『訓民歌』は地方の民衆教化を行う際の布告文や諭示文に代わるものとして詩賦の形式を借りたものであった。 1583年になると礼曹参判に任じられ、その後刑曹と礼曹の判書を歴任、1584年に大司憲に任じられたが、誣告によ翌年辞職、故郷に戻り『思美人曲』、『続美人曲』、『星山別曲』などの作品を作っている。 1589年、右議政に抜擢され鄭汝立の反乱事件を処理すると、西人の領袖として東人への徹底した粛清を行った。粛清では多くの者が刑死されたが、その刑場の惨状を目の当たりにした李山海などは鄭澈との距離を取るようになっていった。翌年には左議政に昇進したが、1591年に「建儲の議」問題で流罪とされた。 1592年、豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われると再び登用されている。翌年には平壌奪回により中央政界に復帰、朝鮮支援の出兵に対する謝恩使として明朝に派遣されたが、外交方針をめぐり東人の攻撃を受けて辞職、その後は江華島の松亭村に寓居、12月に死去している。

    著書

    1. 『松江歌辞』 2. 『松江集』

    作品

    1. 『星山別曲』 2. 『関東別曲』 3. 『思美人曲』 4. 『続美人曲』 5. 『訓民歌』

  4. 王弘 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 王弘
    • 生涯
    • 議論・献策
    • 性格
    • 言動
    • 他者との関係
    • 子女
    • 伝記資料

    王弘は小さな頃から学問に打ち込み、清廉恬淡なることで名を知られており、謝混とよしみを通じていた。その名声のため司馬道子の驃騎参軍主簿として取り立てられた。その後更なる出世の諮問もなされたが、父の王珣のとりなしにより立ち消えとなった。父の喪に服したのち、司馬道子や司馬元顕が王弘を招聘しようとしたが、いずれも辞退した。 404年、劉裕の桓玄打倒に功績があったということで、華容県五等侯に封ぜられた。しかし410年の盧循率いる五斗米道軍の侵略があった時には、尋陽にまで逃げている。事態が収束したのち、中軍諮議参軍・大司馬(司馬徳文)右長史を経て呉国内史となった。 劉裕が太尉となると長史、次いで左長史となった。劉裕の北伐に従軍し、417年に王鎮悪らが洛陽を陥落させると、九錫の到着が遅れていたため、催促のため王弘を建康に向かわせた。建康で劉裕の代任をしていたのは劉穆之であったが、王弘の到着を聞くと、手続きを進め切れていなかったことを恥じ、また恐れ、発病して死んだ。劉裕が劉穆之の死を受けて彭城に帰還したところで、王弘を彭城郡太守に任じた。更に江州に移り、監江州豫州之西陽新蔡二郡諸軍事・撫軍將軍・江州刺史となった。任地では善政を布き、民はこれに安んじたとされる。 419年に、謝霊運が愛妾を軍人に寝取られたことに怒り、その軍人を殺すという事件が発生。この事件を厳しく裁かなかった同族の王准之を糾弾し、その振る舞いの正しさを劉裕より称賛された。420年に劉裕が皇帝に即位すると、散騎常侍を加えられ、また佐命の功から華容県公に封ぜられた。422年には宮廷入りし、衛将軍・開府儀同三司となった。 劉裕の死後、あとを継いだ劉義符の行状が甚だ皇帝に相応しくない、とのことで、424年に徐羨之らは劉義符を廃立し、のちに殺害した。王弘もこの謀議に関わっていた。ただし426年に劉義隆が徐羨之らの誅殺をなした時、積極的な関与ではなかったこと、また王弘の弟の王曇首が劉義隆の側近としてとりなしたこともあり、特に罪には問われなかった。それどころか劉義隆政権下でも積極的な献策をなし、その功績より司空、建安郡公への昇進が諮られたが、辞退した。車騎大将軍となった。劉義隆が謝晦討伐に親征した際には、劉義康とともに建康の留守を守った。 徐羨之らの誅滅により、宮廷の枢要を多く琅邪王氏が固めることとなった。これを危惧した范泰...

    司馬道子に仕えてまもなくの頃、農業に滞りがあり、中間搾取が甚だしいことを見て取ったため屯田制を提唱した。
    元嘉年間、民にもたらされる犯罪に対する処罰の苛烈さを見、中級官吏らと議論を交わし、その刑罰を軽くするよう上表した。
    民に課せられる労役は13歳より半役、16歳から全役とされていた。王弘は、13歳ではまだ身体が出来上がり切っていないこと、また国内の情勢が安定してきたことを理由に、15歳もしくは16歳より半役、17歳より全役と改訂するよう上表した。
    明敏にして思いやり深く、あらゆる振る舞いが礼に適っていた。そのため王弘の振る舞いそのものを一つの規範とする「王太保家法」なる書も著されている。
    一方で軽率にして偏狭な性格でもあり、誰かが自分の意に沿わなければ、すぐさま面罵を加えてくることがあった。
    若い頃には公城子野という場で博打に入れあげていた。後には改めたのだが、この時の行状を宰相になった頃に指摘され、言葉に詰まったことがあった。
    父の王珣は貨殖家であり、多方面に貸し付けをなしていた。王珣が死亡すると、王弘はその証文を焼き捨てた。また王珣の残した事業は全て弟らに譲渡した。その後も貨殖を営むことがなかったため、死後に財産らしい財産は残っていなかった。
    王弘の家に客が訪問してきたとき、客が会話の中で、うかつに父(王珣)の諱を犯してしまわぬように、と考え、王弘に父親の名を聞いたことがあった。その時王弘は「蘇子高(蘇峻)と同じだよ」と答えている。珣と峻は、中古音でもやはり同じ sǐuěn である。
    劉裕が晩年、宴会で「もともとこのような地位は望んでいなかった」と語った。その言葉に対して群臣がしきりに劉裕を称賛する中、王弘は居住まいを正し「天命です。望んで得られるものでも、辞退できるものでもありません」と語り、その率直な物言いが讃えられた。
    宰相として官吏に封爵地を授ける時、まずは激しく面罵し、その後に封爵した。その理由を聞かれると「封爵とは陛下の土地を削減する振る舞いである。そのことを悲しく思わないものであれば、いずれ陛下に恨みを抱くかもしれない。そのような者に、陛下の土地を預けるわけにはゆかない。そのことをまず思い知らせているのだ」と答えた。
    江州刺史として赴任した際、赴任地で隠者として高名となっていた陶淵明に美酒を送り、官吏としての招聘を試みている。招聘こそ失敗したものの、宴会には参加してもらえている。この際に陶淵明は「於王撫軍坐送客」という詩を詠んでいる。ただし、あくまで王弘が開いた宴で同席した者の出立を見送る詩という体裁であり、詩中に王弘の姿は現れない。
    劉裕に後を託された徐羨之・傅亮・謝晦・檀道済の四名のうち、特に檀道済との関係が良好であった。後に徐羨之らと対立することがあった時にも、常に檀道済支持に回っていた。
    謝晦との関係は良好とは言えなかった。劉穆之の後任に王弘はどうだろう、と劉裕が問うと、謝晦は「王弘では軽率すぎます。徐羨之のほうが良いでしょう」と答えている。また謝晦が反乱の軍を立ち上げたときにも、その檄文において王弘やその弟の王曇首が君側の奸として好き放題をしている、と激しく糾弾している。
    王僧達(末子。劉義慶の娘を娶り、中書令に至った)
    『宋書』巻42 列伝第2
    『南史』巻21 列伝第11
  5. 朴栽弘 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 朴栽弘
    • 経歴
    • プレースタイル・人物
    • 詳細情報
    • 外部リンク

    アマチュア時代

    1992年、高校3年の時に出身地光州広域市を本拠地とするヘテ・タイガースに1次ドラフトで指名されたが、これを拒否し延世大学校へ進学した。 卒業後も、ヘテへの入団を拒否し、社会人野球の現代フェニックスに入団が内定されていた。 1995年シーズンオフ、現代グループが当時の太平洋ドルフィンズを買収し、現代ユニコーンズとして韓国野球委員会に参入したが、ヘテ・タイガースが彼に対する永久交渉権を持っており、彼は依然としてヘテに対する拒否の姿勢を崩さなかったため、プロ入りは難航していた。そのため、現代ユニコーンズはヘテとの協議を経て、一旦朴をヘテに入団させてから、現代が補償選手として崔尚徳を出す条件で、トレードで現代ユニコーンズに入団させることにした。ヘテとの契約条件は朴と現代ユニコーンズで合意した内容であった。

    現代時代

    プロ1年目から走攻守に秀でたその才能を発揮し、韓国プロ野球史上初の新人における30本塁打、30盗塁を達成し、さらに本塁打王、打点王の2冠のタイトルを獲得、新人王にも輝いた(2017年シーズン終了時点で30本塁打は韓国プロ野球の新人選手本塁打数のシーズン記録)。 その後も現代の主力打者として活躍し、1998年、2000年と2度の韓国シリーズ優勝に貢献した。 だが2001年、2002年はやや成績を落とした。

    起亜時代

    2003年に鄭成勲との1対1トレードで、あいにくも頑なに入団を拒否してきた起亜タイガースに放出された。 同年こそ打率3割を記録し、起亜もレギュラーシーズン2位と優勝戦線に残ったが翌2004年は怪我などでプロ入り後自己最低の73試合にしか出場できなかった上、愛着のないチームに移籍された所為か怠慢と見られるプレイが目立ち、チームの和を乱すと批判された。 このような時に朴本人までもトレードでの他球団移籍を要求したため、2005年に金熙杰との交換でSKワイバーンズにトレードされた。

    打席に立つと、応援席からは「豪打俊足(ホタジュンジョク)、パクチェホン!」のコールが響くことでもよく知られている。また、SKの本拠地文鶴野球場の1塁側内野席1階の上には、朴栽弘の通算本塁打、盗塁数を示す記録ボードが掲げられている。 国際大会の経験も豊富で、アジア大会の野球韓国代表として1998年、2002年の韓国代表の2連覇にも貢献し、2006年大会にも出場し3大会連続出場となった。五輪には2000年シドニー五輪にのみ出場している。 アテネ五輪はアジア地区予選に出場したが、韓国代表が予選敗退したため出場はならなかった。2009 ワールド・ベースボール・クラシックの予備選手だったが、最終エントリーには登録されなかった。 国際大会で好成績を残していることもあり、「リトルキューバ」のニックネームがある。

    年度別打撃成績

    1. 各年度の太字はリーグ最高

    背番号

    1. 62(1996年 - 2012年)

    タイトル・表彰

    1. 新人王(1996年) 2. 本塁打王:1回(1996年) 3. 打点王:2回(1996年、2000年) 4. ゴールデングラブ賞:4回(1996年、1997年、1998年、2000年)

  6. 第5代総選挙 (大韓民国) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 第5代総選挙_(大韓民国)
    • 概要
    • 基礎データ
    • 選挙結果
    • 第4代大統領選挙
    • 当選議員
    • 脚注
    • 参考文献・サイト
    • 関連項目

    第一共和国の大統領である李承晩が四月革命で退陣した後、1960年6月15日に責任内閣制への憲法改正が実施された後で、民議院と参議院の選挙が同時に行われた。尚、参議院については李承晩時代の1952年7月の憲法改正で導入はされてはいたが、選挙は実施されておらず、今回がはじめての選挙となった。選挙の結果、民議院と参議院の両院で民主党が多数派を占める結果となった。

    今回の選挙から選挙権は満21歳から満20歳に引き下げられた。 1. 大統領権限代行:許政国務総理。李承晩が退陣した後、第二共和国が発足するまでの過渡政府を担った。 2. 議席数 1. 民議院:233議席 2. 参議院:58議席 1. 選挙制度 1. 民議院:小選挙区制 2. 参議院:ソウル特別市と道を選挙区単位とした大選挙区制(制限連記制) 1. 立候補者 1. 民議院:1,563名 2. 参議院:201名 1. 選挙人数:11,593,432名

    投票日:1960年7月29日
    投票率:84.3%

    総選挙後の8月12日に開かれた民議院と参議院の両院合同会議で、第4代大統領選挙が実施された。選挙の結果、民主党旧派の指導者である尹潽善議員を圧倒的多数で大統領に選出した。 大統領選挙後の8月16日、尹潽善大統領は旧派の領袖である金度演を国務総理に指名し民議院に対し承認を求めた。しかし翌17日に行われた投票では賛成111票、反対112票、無効1票で承認は否決された。そのため民主党新派の領袖である張勉を国務総理に指名、19日の民議院において行われた承認投票で可決され、国務総理に就任した。組閣に関し張勉国務総理が、内閣閣僚から旧派を排除し、新派一色で構成しようとしたことで、民主党内の新派と旧派の争いが激化した。結局、旧派は民主党を離脱して1960年10月18日に新民党(第三共和国と第四共和国の新民党とは直接の関係は無い)を結成した。

    民議院

    民主党 自由党 社会大衆党 韓国社会党 統一党 憲政同志会 無所属

    参議院

    民主党 自由党 社会大衆党 韓国社会党 革新同志会総連盟 無所属

    ^ 春木育美『現代韓国と女性』新幹社、158頁“表5-1「歴代女性国会議員数」”、166頁
    ^ 解放直後に結成された韓国民主党の系譜を汲む政治家のグループ。後に大統領となる金泳三は旧派に属していた。
    ^ 金浩鎮『韓国政治の研究』李健雨訳、三一書房、243頁の"<別添表3>歴代大統領選挙"を参考にして作成した。
    ^ 森山茂徳『韓国現代政治』東京大学出版会、186~187頁“ 「表5 歴代大統領選挙」”
    韓国史編纂委員会 金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典』、日本評論社
    尹景徹『分断後の韓国政治-1945~1986-』、木鐸社
    金浩鎮『韓国政治の研究』李健雨訳、三一書房
    『世界の議会』9巻、ぎょうせい
  7. 田峻玗 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 田峻玗

    田 峻玗(チョン・ジュンウ) Jeon Jun-Woo ロッテ・ジャイアンツ #8 基本情報 国籍 韓国出身地 慶尚北道 慶州市 生年月日 1986年 2月25日(35歳)身長 体重 184 cm 91 kg 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 左翼手、指名打者、三塁手(以前) プロ入り 2008 ...

  8. 京城高等商業学校 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 京城高等商業学校
    • 概要
    • 沿革
    • 校地
    • 歴代校長
    • 教員
    • 出身者
    • 関連書籍
    • 関連事項
    • 外部リンク
    京城高商の前身は東洋協会によって設立された東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)京城分校である。この分校が本校から独立して東洋協会京城専門学校、さらに私立京城高商への改組を経て官立専門学校となった。朝鮮総督府の所管学校であり、本科が設置された。
    日本統治下の朝鮮に存在した専門学校の中で唯一「内地人」教育を掲げる学校だった。
    日本の敗戦に伴う廃校ののち、韓国人によるソウル経済専門学校として再発足し、ついで商科大学としてソウル大学校の一部に組み込まれ(現:経営大学)、現在に至っている。
    1916年(大正5年)6月 - 朝鮮総督府により、東洋協会植民専門学校京城分校の設立が認可され、その管轄下に置かれる。
    1907年10月:分校設立時の校地は京城府大和町1丁目24番地(現在のソウル特別市中区筆洞)。
    1919年4月:京城府崇二洞(崇二ヶ丘)に新校舎が落成し移転。
    1939年10月:京城府城北区鍾岩町19番地に移転。

    前身である東洋協会京城専門学校・私立京城高等商業学校の時期、および経済専門学校への改称後の時期も含む。 幹事 1. 初代 - 河合弘民(1907年(明治40年)10月 - 1915年(大正4年)4月) - 東洋協会専門学校(本校)から赴任 2. 第2代 - 児玉秀雄(1915年(大正4年)4月 - 1916年(大正5年)11月) - (前)朝鮮総督府総務局長 校長 1. 初代 - 吾孫子勝(1916年(大正5年)11月-1921年3月) - 京城専修学校(のちの京城法学専門学校)校長と兼務。 2. 第2代 - 鈴木孫彦(1921年6月-1928年3月) - 初代の専任校長 3. 第3代 - 岩佐重一(1928年3月-1939年4月) 4. 第4代 - 山本智道(1939年4月-1943年4月) 5. 第5代 - 兼安麟太郎(1943年4月-1945年8月) - 1944年4月より京城経専校長。 統合された京城法学専門学校の校長 1. 平井三男- (不詳)

    和田節治(1921年・1回卒)- 元パイロット万年筆社長
    山口義男(1925年・5回卒)- 元大阪酸素工業会長
    全禮鎔(1930年・10回卒)- 元韓国銀行総裁
    朴斗秉(1932年・12回卒)- 元OB(現・斗山)グループ会長、元大韓商工会議所会長
    欧文社編輯部 『全国上級学校大観』 欧文社、1938年
    京城高等商業学校(同経済専門学校)同窓会崇陵会 『京城高等商業学校創立70年記念文集;一粒の麦』 1990年
    稲葉継雄 『旧韓国~朝鮮の「内地人」教育』 九州大学出版会、2005年 ISBN 4873788846
    拓殖大学創立百年史編纂専門委員会 『拓殖大学百年史』 資料編 海外兄弟校、学校法人拓殖大学、2008年

    他の官立高等商業学校については高等商業学校#主要な高等商業学校を参照。 1. 旧外地の高等教育機関 2. 日本統治時代の朝鮮の高等教育機関 3. 高等商業学校 4. 旧制専門学校 5. 京城帝国大学 6. 台北高等商業学校 7. 拓殖大学 8. ソウル大学校

    三代川正秀, 「東洋協会の植民地実業教育について」『拓殖大学経営経理研究』 110巻 p.5-36, 2018年, 拓殖大学経営経理研究所, ISSN 13490281
  9. 金宗瑞 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 金宗瑞

    金宗瑞(きん そうずい、キム・ジョンソ、1390年 - 1453年 11月10日(端宗2年10月10日))は、李氏朝鮮初期の武臣・政治家。 本貫は、順天。 世宗が最も寵愛した家臣として知られる。 経歴 1382年に、都摠制の金錘の息子として生まれる。1405年に、官職に就く。

  10. 愛新覚羅溥儀 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 愛新覚羅溥儀
    • 概要
    • 生涯
    • 家族
    • 自伝
    • 題材にした諸作品
    • 関連項目
    • 参考文献

    中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。幼帝として2歳で清朝皇帝に即位し、元号から宣統帝と称される。辛亥革命後は遜清皇室小朝廷として大清皇帝の尊号で保護されるも張勲復辟事件で復位して12日間で再び退位。 その後は清室優待条件により紫禁城に住むことを許されるものの、北京政変で紫禁城を追われてしまう。さらに当初庇護を受けようとしたイギリスやオランダ公館に庇護を拒否されてしまい、天津の日本租界で日本公館の庇護を受けた。 これ以降の縁で、満州事変以降関東軍の主導で建国された満洲国の執政に就任、満州国軍大元帥や満州国協和会名誉総裁などを兼任し、帝政移行後の大満洲帝国で皇帝に即位した。満州国皇帝としては元号から康徳帝と称されることもある。太平洋戦争における日本の敗戦と、ソビエト連邦軍の侵略を受けた満州帝国の崩壊とともに退位した。 ソ連赤軍の捕虜となって中華人民共和国に引き渡され、1959年の撫順戦犯管理所からの釈放後の1960年には中国共産党の方針により北京植物園に勤務したが、すぐに政協文史研究委員会専門委員に就任した。さらに晩年の1964年には、満州族の代表として政協全国委員に選出され、北京で生涯を終えた。

    年表

    1. 1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる 2. 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位 3. 1912年:辛亥革命により退位 4. 1917年:張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、12日後に再び退位 5. 1919年:イギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招聘 6. 1922年:正妻の婉容、側室の文繡と結婚 7. 1924年:クーデターにより紫禁城から退去。ジョンストンが帝師を退任 8. 1925年:イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否され、天津日本租界内張園に移転 9. 1931年:文繡と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る 10. 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任 11. 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位 12. 1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問 13. 1937年:譚玉齢を側室とする 14. 1940年:日本を再び公式訪問、最後の公式外国訪問となる 15. 1942年:側室の譚玉齢が死去 16. 1943年:李玉琴を側室とする...

    生誕

    1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王載灃と、光緒帝の従弟で、西太后の腹心栄禄の娘であるグワルギャ氏(瓜爾佳氏)・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。祖父は愛新覚羅奕譞、曽祖父は道光帝となる。

    第12代清朝皇帝

    1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後宣統帝は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。 西太后は宣統帝を後継者とするとともに、宣統帝の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。 光緒帝の崩御に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。 誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺した」とする説がある一方で、「戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺した」という説もあり、溥儀は自伝『わが半生』では「袁世凱による...

    正妻と側室

    正妻である婉容と側室である文繡と1922年に結婚するが、後に文繡と離婚、その後アヘン中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京の旗人出身の譚玉齢(他他拉氏、祥貴人)、長春の漢族出身の李玉琴(福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。 溥儀は自伝『我的前半生』で婉容については「私が彼女について知っているのは、吸毒(アヘン)の習慣に染まったこと、許し得ない行為があったことぐらいである」とだけ書いている。「許し得ない行為」とは満州国皇帝時代に愛人を作り、その子供を産んだとされる事を指すと思われる。子供は溥儀の命により生まれてすぐにボイラーに放り込まれ殺害されたと言われる。 李玉琴は満州国崩壊後の1945年に離婚を表明。1957年5月、撫順の政治犯収容所に収監されていた溥儀に面会し正式に離婚。翌年エンジニアの黄毓庚という人物と再婚し息子を儲けた。このためか溥儀は自伝『我的前半生』で玉琴についてはほとんど言及していない。玉琴は文化大革命期に迫害を受けたため、溥儀の妻ではないことの確認を溥儀に申し立てた。溥儀は玉琴とは既に離婚しており...

    再婚

    1959年に特赦された後、1962年に看護婦をしていた漢族の李淑賢(1924年 - 1996年)と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。生涯で子をもうける事は無かった。溥儀に子供ができなかったことについて義妹の嵯峨浩は「同性愛であったため」と推測し、2人目の正妻である李淑賢は同性愛を否定し、「インポテンツだったため正常な夫婦関係が築けなかった」と主張している。

    兄弟

    1. 愛新覚羅溥傑(1907年-1994年) 2. 愛新覚羅溥任(1918年-2015年)

    『我が半生』(原題:我的前半生、英語題:The former half of my life)は、唯一の自伝である。執筆は、中華人民共和国で「政治犯」として「再教育」を受けていた1957年後半から一年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本語訳本(小野忍・新島淳良・野原四郎・丸山昇訳、各 全2巻で筑摩叢書、新版ちくま文庫)が出版されている。また、残された日記の断片が『溥儀日記』(王慶祥編、学生社)が出版されている。 2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。 中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、 1. 序言≪中国人的骄傲(中国人の誇り)≫ 2. 第六章《伪满十四年》的第一节≪“同时上演的另一台戏——摘录一个参与者的记述”(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫ 3. 第七章《在苏联的五年》的第四节≪“远东国际军事法庭”(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫ 4. 第十章《一切都在变》的第四节≪“离婚”(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫ などを含んでいる。 溥儀には継承者がおらず死去した際に遺言書がなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。裁判所は請求に基づき審査を開始したが、まだ裁判所の判断は示されていない。

    書籍

    1. 皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版) 2. 『中原の虹』浅田次郎著 講談社(2006-2007) のち文庫 3. 『天子蒙塵』浅田次郎著 講談社(2016年)

    映画

    溥儀が主人公である映画 1. ラストエンペラー(1987年、イタリア/ 中華人民共和国/ イギリス) 1.1. 成人した溥儀をジョン・ローンが演じた。ベルナルド・ベルトルッチ監督。1987年度のアカデミー賞で、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全ての受賞を達成した。上記のように、この映画は幾つかの脚色された要素を含んでいる。 2. 火龍(1986年、中華人民共和国/ 香港) 2.1. 溥儀役:レオン・カーフェイ。収容所から出所してから病院で死去するまでの溥儀と再婚した李淑賢との生活を描いている。 溥儀の周辺を描く映画 1. 流転の王妃(1960年、日本) 1.1. 溥文(溥儀)役:竜様明。弟・愛新覚羅溥傑の妻・嵯峨浩の視点から描いている。 2. 悲劇の皇后 ラストエンプレス(1985年、中華人民共和国/ 香港) 2.1. 溥儀役:姜文。主人公たる溥儀の皇后・婉容の視点から満洲国時代を描いている。

    テレビドラマ

    溥儀を主人公としたテレビドラマ 1. ラストエンペラー(VHS邦題:末代皇帝 THE LAST EMPEROR、1988年、中国) 1.1. 溥儀役:張萌→蔡遠航→陳道明→朱旭。溥儀の誕生から、辛亥革命、満洲国皇帝時代を経て、東京裁判にいたるまでを描いた連続ドラマ。 溥儀の周辺を描くテレビドラマ 1. 流転の王妃・最後の皇弟(2003年、日本、テレビ朝日) 1.1. 溥儀役:王伯昭。弟である愛新覚羅溥傑とその妻・嵯峨浩の視点から描かれた。 2. 末代皇妃〜紫禁城の落日〜(中国語版)(2004年、中国) 2.1. 溥儀役:李亜鵬。溥儀の第2夫人であった文繡の半生を描く。 3. 李香蘭(2007年、日本、テレビ東京) 3.1. 溥儀役:王偉華。李香蘭の半生を描く。 4. 男装の麗人〜川島芳子の生涯〜(2008年、日本、テレビ朝日) 4.1. 溥儀役:高嶋政伸。清朝の一族である川島芳子の生涯を描く。 5. 重生(2011年、中国) 5.1. 溥儀役:楊立新。溥儀の第4夫人であった李玉琴の半生を描く。日本未公開。 6. 二つの祖国(2019年、日本、テレビ東京) 6.1. 溥儀役:織田信...

    愛新覚羅溥儀『わが半生 「満州国」皇帝の自伝』上・下、小野忍・新島淳良・野原四郎訳、筑摩書房〈筑摩叢書〉、1977年12月。
    愛新覚羅溥儀『溥儀日記』王慶祥編、銭端本ほか訳、学生社、1994年10月。ISBN 4-311-60324-X。
    愛新覚羅溥傑『溥傑自伝 「満州国」皇弟を生きて』金若静訳注、河出書房新社、1995年1月。ISBN 4-309-22268-4。
    愛新覚羅浩『「流転の王妃」の昭和史―幻の"満州国"』(主婦と生活社 1984年、新潮文庫1992年)
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